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#2 付箋主義の哲学

・・”問題”は実在しない。問題が街を歩いていたり、タバコを吸っていたり、公園で昼寝をしている所を私たちは見たことがないだろう。

問題は人が観念の中で見ることである。・・このことは問題という概念がいかに相対的であるかということを表している。相対的であるということは問題は時代や文化、共同体によって変わる。

・・例えば、現代では社会問題になりかけている教育現場における体罰問題は昭和では当然の事と認識されそれは社会的な問題ではなかった(筆者は平成に入っても受けてたが)。LGBT問題、男女平等問題は当然江戸時代にはなく、近代以降の”人間”の誕生を根にして現代になって問題視されている”問題”である。・・

また愛国や日本人であることに誇りを持つような言動が戦前の日本軍を彷彿とさせるという理由で問題になるがそれは日本にとっては戦後以降であり、皇族には自由がない、人権がないという”問題とさてる”もほんのここ数年まで問題にならなかった。・・また、上司が部下の頭を撫でた場合(男性が女性を撫でた場合に限られる:非対称性の問題を内包しているが)それがセクハラだと社会的に問題されるようになったのもそれはここ数年の話である。・・

・・これらのことが意味するのは問題とは”それが問題だ”というその時代の規範によって作られるのであり、問題だと思っていない人にとってもそれが他者から見れば問題視された場合、当人にとっては問題ではなくても
”問題”として扱われてしまうということである。・・すなわち問題とは文化や時代に依存する相対的で観念的な概念なのであり、そのような意味で問題は実在しない。

そしてその問題が変動的な社会の規範、さらに言えば風潮によって作られるのだが近代以降の日本の場合それらの問題意識は西洋の近代理念をベースにそれが問題かどうかを判断している割合が増えている。

すなわちそれが社会的な”問題”かどうかの問いの前提が既に近代西洋理念をベースにし、日本社会特有の問題意識や問いの前提はその西洋理念をベース覆い隠されている。・・平たく言えば他国から借りて来た問題意識によって問題を”作って”さらに”私たち”の問題を覆い隠している。・・・・

例えば昨今日本で話題になる#metooムーブメントやフェミニズム 運動、LGBT、BLACKLIVESMATTERなども全て西洋文化が問題視したので問題視しているのでありそれは「それを問題だと言った方が君は意識が高い人だと思われるよ」という受け売りの問題意識である。日本においてはごく少数を除いて、西洋の問題を自分は意識しているという事が”ブランド”になるからそれを掲げて社会のポジション取りをしている。・・・・中身のないただの承認欲求である。・・・・

しかしそれらは掲げる自分を内在化するが故に、あたかも自分がその主義者である様な顔をする。・・

その様な人たちと会って話したこともあるが、では本気で話しましょうとすると議論を逃げるか、正当化をやめてただ感情的な私情を永遠と話すだけで終わるのが常であった。・・

・・他人から評価が欲しいためだけの社会的なポジション取り。西洋のムーブメントが個人のポジションどりに使われているのが現状で、もし彼らは西洋がその問題意識をやめたら、手のひらを返すようにその問題の看板を取り外すだろう。

そうした人達は日本の独自の問題を見つけることができない。・・本来なら日本にまだ根付くよくある在日朝鮮人に対する差別は外国人労働者への日本側の対応の問題、外国人の選挙権の問題、など国内に目を向ければ多くある問題に彼らはその”意識の高さ”とやらを向けない。・・・・それはなぜか。なぜなら西洋がそれを問題視していないからである。

日本特有の問題は西洋の問題ではない。よって意識が向かない。おしゃれじゃない。西洋の話題に関心がある方がナウでヤングで正しいのである。この無意識に刷り込まれた西洋賛美の精神が日本人の根幹にはある。・・しかしこれは、もちろん全員ではない。それはここで強調しておきたい。ただ大多数がそうである。 このような状態を20世紀の偉大な哲学者オルテガは「大衆は思想を他に見出すが自ら作ることができない。」と述べており日本がその大衆社会のど真ん中にいることを端的に表している。・・

上記の例は日本人が問題の設定を西洋から借りてきている事の現れであるが、これらの受け売りの問題意識は小学生でもわかるほど議論のレベルが低く世論レベルの床屋政談をあたかも”意見”として粉飾決算しインターネットに表明しているにすぎない。

彼らはネット上でどれだけ大言壮語を吐いていても対面の議論の場に出てきてください。と言っても出てこない。・・・・民主制の問題意識の市民権とは他者との徹底的な議論との弁証法の中にしかない。 オルテガ が指摘するように近代文明の堕落の起こりの現象としてヨーロッパに現れたのは「議論をやめる」という態度であった。・・

・・他人と議論しないという態度は自らの言説の中に流れる歴史、社会的相関関係を一切無視しすることを意味するよって彼らの意見に他者はいない。・・他者のいない議論は公的なニュアンスを帯びることはなく、ただの公衆トイレの落書き程度のものである。・・

・・ヨーロッパの自由、平等、人権等々が組み込まれた民主制。・・その中で西洋の問いを中心に起こる社会問題は全て、その前提が西洋フランス革命に象徴される近代のテーゼの上での土俵である事に気付かねばならない。・・すなわちその土俵の上で議論をすることはすでに砂上の楼閣化しているのである。・・

・・故に”問題”とはそもそも何であるか?平等とはそもそも何であるか?・・
自由とはそもそも何であるかと?・・

このように根本を見つめ直す哲学的な態度こそが私たち日本人に重要なのである。



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