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私が匂っているのは何の匂い?


秋になりましたね。
東京での夏独特?のあのムッとした感じがなくなりました。
ムッは何を意味しているのか?その言語内前提を考えると
おそらく湿度がその中核になるような気がしている。

東京の夏は関西で味わった以上に嫌なものだ。
それは暑さそのものに付随して誰もその暑さに発狂していないからだ。
汗だくで満員電車に乗り、汗だくで会社に向かう。

皆がそれを常識のように行う。誰も抵抗しない。発狂もしない。
全くもって頓珍漢な世界に感じる。
その違和感が最も私をしんどくさせる。困ったもんだ。
何かって困っている私が一番困る。

夏は洗濯物がよく乾く。
同じ白Tシャツを20着、同じ靴下も20着を回して
ジャケットとパンツはいつも同じ。

決まった服しか着ない私にとってそれ以外の服を干す作業は
マメではない。ずっと放置。のようなことになる。

ある日ローテーション組ではない洗濯物が生乾きで
とても臭かった。久々にあんな臭いものを嗅いだ。

慣れない匂いは臭いと思いやすい。よく家に出入りしている人に
もう一回洗濯しなおせば?と笑顔で言われた。
でもね?

臭い洗濯物を、臭くなく乾いた状態で
着れる状態に持っていくのが目的なのであれば
臭くなくなるまで干しておけば良い。

どんなくさい生乾きの服でも3000年砂漠で干せば匂いはなくなるだろう。
やったことないのになぜかわかる。何で?面白い。実験してみよう。東京の夏で。

結果4ヶ月夏の間干していた。
雨の日も晴れの日もずっと干していた。

アタックやボールドのような匂いを上書きする”匂い”のあり方は
好きではない。女性もすっぴんがいいのと同じ。
”そのもの”のあり方に常に惹かれる人生。

だから4ヶ月干してみた。
そんで匂いってみた。
すると何だかすごく自然な匂いがした。

それは自然の匂いなのか、それとも服の素材そのものの匂いなのか。
太陽の匂いなのかよくわからん。

自然の匂いなんてものを嗅いだこともなければ、服の素材そのものの匂いを嗅いだこともない。ましてや太陽の匂いなんて嗅いだこともない。

もしそれが自然の匂いなのであれば、それは映画のようだと感じる。
本来の自然の匂いは私たちは臭うことができない。
それが私たち人間が自然の中に存在しているから。

だからそいつは一回外に出てもらわないと。
しかし、それが服通じて自然を匂う。
スクリーンを通じて真実を匂わせてくれるのと同じ。

映画は嘘で本当を語る。芸術一般にそうである。
服は服という嘘の物質を通じて本当を匂わせる。

この関係はとても良い比喩だ。

とにかく今夜12時を過ぎているのだが、隣の’家の下手くそな
弾き語りの歌がずーっと聞こえてくる。

彼のギターには強弱がない、あとリズムがバラバラだから
一度メトロノームを使って練習した方がいい。

ギターのプレイは所詮筋肉運動なので
声も同じ問題を抱えている。

歌に強弱がない、リズムもない。
人に聞かすことを知らないプレイだ。

家で永遠とやっているとそうなってしまう。
一度ついた癖は抜けにくい。

いつか「下手くそー!」
と窓から叫んでやりたい。そんで教えてやりたい。
聴かせたい相手の目を見て歌ってみたら?と。

一体何を書いているのやら。

私が匂ったあの匂いは何のだろうか。
そう。その話。

服の匂いから、現実の虚構性と真実性のヒントを得た
夏の話。

もう秋がやってくる。
乾いた洗濯物は肩のところにハンガーの跡が残りピコンともっこりしている。

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