食戟のソーマから学ぶ”Spécialité”という個性〜映画の話と絡めて〜

この記事はパンクロッカー/希哲学者/映画監督など様々な方面で活躍している人が書いてます。プロフィールはこちらhttps://www.souri.site/

さてさてだいぶ寒くなってきましたね。毎日部屋にこもり次の短編の映画と来年末に書く長編の映画の脚本と来年中に出版予定の哲学書の執筆に没入中の毎日です。
部屋にこもって0から1を生み出す作業を永遠とやっていると気が狂いそうになって(自分らしくて好き)そう言う時はいつもアニメを見る。

先日アニメ『食戟のソーマ』(以下ソーマ)を見終わった。
あれこれ4年前くらいからジャンプで読んでいて、途中話がついていけなくなって。また読んでを繰り返していたのだが、今年の10月にNetflixで放送されているアニメが完結したと聞いて初めから全部見た。

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とにかくこの作品が大好きで終わってしまうと聞いてから、確かに〜ロスという言葉の意味が分かる。もう褒めたい部分や語りたい部分はたっくさんあるんだけれど今日はその中でも大切な教訓として預かりたい部分について書こうと思う。

個性というspécialité


食戟のソーマには「spécialité」という一品がある。
それは何かというと「その人の人生が見える料理か」どうか。という究極の判断基準である。ソーマは常に審査員3名の前で料理勝負をし多数決で勝敗を決める。

その時にまれに料理の味は互角。という状態が起きる。
実際主人公ソーマもスパイスの天才葉山(はやま)という男とバトルをした時にその状態が起こる。

両者の味は互角。勝敗を分けたのはその一品がspécialitéかどうかだった。そして結果ソーマは勝つのだけど、この部分が自分にはどうしてもきちんと解釈したいと思われた。

ソーマを見ていると、”個性”という言葉が常に自分の話ではなくて自分の人生、生い立ち、環境、経験、出会った人たちなどの社会関係資本(Social capital)の累積だと感じる。以外の考えてみればそうかも知らない。意外とこの考えは哲学にもない。

デカルト派の考え方だと”自分”と世界を分ける。自分が環境の産物であるという社会学的な発想がソーマの中で描かれる個性に近い。でもそれを個性という言葉で表したりはしない。

だから見始める前と見終わった後では”個性”や”人生”の捉え方が少し変わった。それはソーマではかなり多くのキャラクターが出てくるのだけれど、彼らを一人一人本当に愛を持って丁寧に描いているからだと思う。脇役気味のキャラクターにも愛を持って描くというのはこういう漫画のことを言うのだと思う。
だから仲間の力や過去のライバルの存在の大きさがソーマが語る以上に伝わってくる。

映画でも「あの人との出会いによって〜」系のセリフがあるのだけれど
そこが密に描かれていないと全く共感できない。彼のセリフに気持ちが乗ってこない。ということがよくある。
でもソーマはめっちゃ乗ってくる。乗ってきて見えてくるとセリフにしなくても、その人がそこにいるだけで(昔のライバルなど)泣けてくる。だからソーマの過去のキャラクターを含めての全員集合のシーンにはすごい力がある。

まさにソーマとは出会った人達の結晶そのものでできている。そして仲間との研鑽の日々と彼の営む定食屋「ゆきひら」、そして飽くなき探究力が彼のspécialitéになっている。

自分は映画や音楽を作るので少しそこと引き合わせて考えていた。
まさに私(SOーRI)にとってのspécialitéとは何かと言う話である。

今の日本映画は比較的にspécialitéがない世界だと思う。
それは裕福な日本は基本的に皆の生活がだいたい同じで作品の本当の”個性”が出てこないものが多い。また自分の人生を引用するというspécialité的な発想がない。だいたい同じ感じのキレイ目の画質で、脚本の感じも今日の時代精神の延長。だからほとんど似たようなものになる。もちろん作品の内容は違う。でもどこか似ている。その”どこか”が大切なのだと思う。

ソーマの作品の中に美作(みまさか)というキャラクターがいる。
美作は他人の料理を完全にトレースして全く同じ作品が作れ、そこにほんの一手間を付け加えて勝負にかつ。常に相手の料理にプラスαして勝つ。ある意味天才的だ。でも美作にはspécialitéがない。すなわち本当の自分の料理がない。
だから美作はspécialitéを出してくる相手には勝てなかった。そして漫画の最後まで自分のspécialitéを探す日々を送っていた。

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spécialitéは奇を衒うとは全く違う。隙間産業とも全く違う。常にその発生源が自分の内側の深い深いところになる。そしてその深いところにあるものが自分だけではなく環境や生い立ち、出会った人、性格でできている。すなわち歴史である。

映画とspécialité

ヨーロッパの映画には非常に歴史が色濃く出る。アウシュビッツのホロコーストの経験や第二次世界大戦を経験した彼らは何年経ってもその出来事と向き合い新たな解釈を映画で打ち出し今日でも「異端の鳥」などが世界的に評価されている。

ソーマで言えば。それらの歴史はヨーロッパ人のspécialitéなんだと思う。すなわち彼らの奥底にはヨーロッパの歴史がある。それらは大きなspécialitéだからヨーロッパでは共有されるし、その歴史を共有しない日本人の私でさえ心震えるものであった。アメリカではそれは黒人問題(グリーンブックなど)や人種差別(crushなど)などに該当し今日でも多大な評価を受けている。

日本は第二次世界大戦後一気に西洋化(アメリカ化)したのでなかなか自分達のspécialitéが出せない。だから日本映画で海外で受賞するものは歴史物が多い(黒澤監督の『スパイの妻』など)。そこには日本独自のspécialitéであるからだ。しかし平成以降生まれた人たちは一度歴史が西洋化によって断絶されているので自国の歴史というspécialitéが出しにくい。また戦争に触れること自体がどこかタブーな雰囲気がある故に無意識に距離を置いてしまう。

自分のspécialité

そしてまた自分のspécialitéの話に戻る。spécialitéは基本的に技術上同じレベルまでいかないといけないという前提がある。spécialitéだけでは勝てない。
おそらく今の私の状態は予算や技術的なところ含めてspécialitéによっているのだと思う。もっとレベルを上げてspécialitéをもっと追求するそれが今後の自分の課題になりそうだ。自分には歴史はあるのか。でもそれはみんなに確実にある。自分だけの人生が。でもそれを意識して作品にするのは至難の技だ。だからspécialitéは出てきにくい。決して美作にはなりたくない(キャラクターとしての美作は大大大好きだ)。

食戟のソーマというあまりにも素晴らしい作品との出会いも
確実に私の個性とspécialitéに繋がるものになる。

ありがとう食戟のソーマ

本音を言えば、終わってしまうのはめっっっっっっっっちゃ寂しいのである。
でもそんなことも言ってられないので張り切っていこう。

現場からは以上です!今日も頑張ります。


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