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言えなかった弱さは書いてく強さを支えてる

書かないと、死ぬ。


学生の頃、気持ち悪い目にあった。
ようは「不審者」という奴に遭遇した。


ここでは詳しくは書きたくないから書かないが、今思い出すと、ただ「きもちわりぃ」と思う。きっとそのときも思っていたはずだ。

そのときわたしはどうしたと思う?


黙って頭で考えだしたんだ。

「この状況って何?」
「てかあんた誰?」
「わたしはこの状況どうしたらいいの?」と呑気に考えだしてしまった。


そしたらどんどん時間が経ち「我慢」が発生してしまった。

はたからみると、ただの黙っている人である。
うんともすんとも言わず、愛想笑いまでしている都合の良い奴であった。


相手も自分もバカだ。

ただわたしは、いまここで「被害者」という立場にはなりたくない。奴らとの線引きを「加害者・被害者」ではしたくないのだ。ただの人と人だ。バカな人たちだ。


今となっては「きもちわりぃ」と、相手に言ってやりたかったかどうかはわからない。このへなちょこなわたしのことだ。面と向かって言えない場面が今なお多々あることを認める。


ただ「きもちわりぃ」は、相手に言わなかったとしても、自分自身にしみついてしまうのだ。

この気持ちの悪さを体内に何もせずもっておくのは、いかにも身体に悪そうではないか。


だからわたしは、人知れずひっそりと書かないといけない。


文字としてでも、ぐっちゃぐちゃで真っ黒な物体のような殴り書きでもなんでもいいから、体内からださないといけない。


こっちは生きるのに必死なんだ。なめんなよ。


あ、そうか。

もしかしたら「なめんなよ」と相手に言いたかったのかもしれない。でもわたしの「なめんなよ」は、面と向かうと全然怖くない。大体がへらへらしてるやつだから。でも・・文字になると少しは怖みがでるから気に入っている。


なめんなよ


そう。わたしは自由に文字になることができるのだ。

人知れずではなく、ここで人様にむかって書くことの意味はそこにある。


文字になると、一気に真剣に伝えることができるってこと。

面と向かうと、どうも真剣みにかける人間だが、文字になるとぐっと締まる。時間をかけて、こころと文字を一致させていく感覚が好きなのだ。

そのぴったり一致した感覚は、どうも「生きてる」感じがする。書くことで生かされている、とでも言おうか。そんなことは、人との間で言葉として言うことはない。

「わたしって、書くことで生かされてるのよ」なんてことは口にしない。聞いた方も「・・・はぁ?」であろう。でも、文字でならすらすら書けてしまう。不思議だ。


文字のよさは、まだある。


それは、いつでも読むのをやめられることだ。嫌なら無言で読むのをさっと回避することができる。それをしても、だれも文句を言わない。礼儀知らずでもない。自分に合わない文章を摂取するほど、わたしはやさしくない。


奴と会った瞬間から、本当はさっさとページを閉じたかったのだ。逃げたかったのに、思考が邪魔をし身体が動かなかった。そんなことが起こってしまうのが、世の中だ。

だからといって世の中に絶望しているわけではない。いまとなっては、この世の中に「文字」という文化があって本当によかったと思っている。

こころと文字を一致することができなければ、わたしはとっくに分裂していたのだから。



わたしは文字になることで、生きのびている。


僕らは、文字のある世界で生きている。



おしまい


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