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Mountain Trail Running  ー山が教えてくれたことー

第1章 @MTR Lab

「こんにちは!」屈託のないいつもの笑顔で達也が調布市仙川町にあるMTR Method™️ Labに現れたのは、日差しが初夏を思わせる二〇一九年五月。黒く焼けた精悍な顔つきが元Jリーガーの面影を残す岡本達也は、三二歳になるビジネスパーソンだ。共通の話題も多く、知り合ってからすっかり縁が深まって弟のように可愛がっている好青年だ。ジュビロ磐田の下部組織で育ち、高校生でトップチームデビューを飾ったサッカーエリートだが、思うような結果を残すことができず、一旦プロの道から外れて順天堂大学に進学した。その後、大学の体育会サッカー部で鍛え直して再びJリーガーになり、水戸ホーリーホックやガイナーレ鳥取で活躍した。無名ながら選手会副会長を務めた実績は、その人望の厚さを物語っている。二〇一五年二月、二九歳の若さで現役を引退し、ベンチャー企業で第二の人生を歩み始めて一年経ち、スーツが少し様になってきた二〇一六年四月に出会った。あれからすでに三年の月日が経っていた。会わせたい人がいると連絡がきたのは二週間前。達也からのメッセンジャーいつものように何かの始まりを予感させた。
 「CRIACAOの籾木結花です。」
籾木結花はなでしこリーグ(女子サッカーでは日本最高峰のアマチュアリーグ)において、長い間、絶対的王者として君臨してきた日テレベレーザで10番を背負う中心選手だ。ニューヨーク生まれで"ニコル"というミドルネームを持つとウィキペディアで知っていたので、たいそうノリの良い若い子が来るのだと思っていた。
 ”この小柄でおとなしそうな女性が本当にサッカー選手か?”
というのが彼女の第一印象だった。話を聞くと海外生活は短く、ほとんど日本で育ち普通の学生生活を送ってきたとのこと。小学二年生からサッカーを始めて順調にエリートの道を歩んできた。文武両道の俊英らしく、慶應大学を卒業しこの春から達也が勤めるCRIACAOにビジネスパーソンとして就職した。たとえサッカー日本代表の選手でも、日本では女子選手にプロフェッショナルとしての職場がない。(二〇二一年に女子サッカープロリーグが発足予定)海外クラブからオファーはあるようだが、市場は大きくないので年棒などは推して知るべしだ。

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 近頃の達也の相談のほとんどが栄養についてだ。パフォーマンスを上げるために、何か秘策はないかをいつも貪欲に探っている男だ。ビジネスの現場に活躍のフィードルを移してからも社会人サッカーを続けており、三度目のJリーガーを目指している。(勤務先のCRIACAOは本格的な男子サッカークラブを運営しており関東一部リーグに所属している強豪。二つ上のリーグがJ3なので、そこで主力として活躍する達也の三度目のJリーガーも夢ではない)彼をその気にさせた理由の一つかどうか定かではないが、私が研究しているホモ・サピエンスの本質についてのアウトプットが刺激になっているのは間違いないだろう。特に、筋肉チューニングによる体質の改善と栄養摂取による肉体改造によってパフォーマンスが劇的に向上して以来、ことあるごとに相談のメッセージが届くようになった。
二〇一六年春、達也はCRIACAOの社長、丸山和大と共に私の自宅を訪れた。プロサッカー選手として限界を感じたのは体中の痛みが増して満足なプレーができなくなったからだ。この時期、丸山とは私が趣味で学んだミオンパシー整体術の話をする機会が多かったので、社員として採用した元Jリーガーの体を物は試しで私に診させるという発想は自然な流れだった。
 草サッカーとは言え三〇年近くボールを蹴ってきた私にとって元Jリーガーと聞けば雲の上の存在。そんな選手の体を触れるという話は垂涎以外の何ものでもない。初めて間近でみる元プロサッカー選手は、激戦の日々をくぐり抜けてきた研ぎ澄まされた眼差しとは対照的な、とても気さくで親近感のある男だった。しかし、達也の体は引退して一年が経とうしていたこの時でも、そうした人柄からは想像できないようなたくましい下肢部が目立つまさにアスリートそのものだった。
 「この体にもミオンパシーが本当に効くのか?」
 そんな不安は施術を開始してすぐに杞憂に終わると確信した。これまで散々酷使して凝り固まっていた筋肉は、緩んだ感覚もわかりやすいのだろう。硬い筋肉は多かったが、股関節屈筋群の施術で筋肉の変化をはっきり感じ取ることができた。腰痛を訴えている場合、まずお腹周りの筋肉からアプローチする。腰椎から骨盤まで伸び、体の中心を支える長くて太い大腰筋と、その奥にあり骨盤全体に張り付いて支える腸骨筋を合わせて腸腰筋と呼ぶ。達也の腹部には余分な贅肉がなく、筋肉の形が手に取るようわかった。まさにアスリートのそれであり、人体模型を思わせる肉体美を感じた。自宅には施術ベッドがなかったのでヨガマットを敷いて施術を進めた。施術者としてはきつい姿勢がつづくのだが、最初が肝心なので少し余計に体幹に力を入れながら自分の体をしっかり支え、達也の体が不安定にならないように心がけた。腸骨筋は骨盤にべっとり張り付いていたが、二〇分ほど緩めたら本来の筋肉の張りが出てきた。
 「痛て!」達也の顔が歪む。
 「ごめんね、ぼくは セラピストじゃないから触診が下手でね笑。普通はもうちょっと繊細なタッチで触るから痛みを感じることはほとんどないんだよ。」
 本来の筋肉の感触がもどった腸骨筋の反応はとても良かった。筋繊維に栄養と酸素を送り込むためのいわゆる”緩める姿勢”を取ってから90秒間固定して待つ。この時、力を抜いたままの姿勢で維持するのがポイントとなるが、セラピストは自分の体を支えつつ相手の体もしっかり支える必要がある。熟練者になるとほとんど自分に負担がかからないコツを習得しているが、私は他者の施術をした経験がほとんどなかったので、達也の重い筋肉を支えるのにかなり苦労した。こうした一連のやり取りは、ストレイン&カウンターストレインと呼ばれる手法に着想を得ており、ミオンパシー整体術はこの手法を利用した徒手療法ということになる。(このストレイン&カウンターストレインという手法はオステオバシーという長い歴史のある徒手療法のメインの技法として知られている。アメリカのローレンス・ジョーンズ博士が開発した手法で、理学療法ではポジショナルリリースセラピーと呼ばれている。)
 達也の筋肉はどんどん変化していったが、緩むスピードは普通かやや遅かった。当時はまだ解明されていなかったが、圧倒的に栄養が不足している体だったのだろう。腸骨筋の次にいよいよ大腰筋に取り掛かった。ほんの少し触れただけで圧痛を感じるほど筋肉ロックの蓄積が顕著だった。「これでは腰が痛むのも無理はないな。」
 「ここはちょっと硬いね。しつこいロックが蓄積していると思うよ。しっかり取り切るのは難しいと思うので、あとでセルフ整体を教えるからご自宅でもやってみてくださいね。」そんなことを話しながら数回施術を繰り返した。左右の腸骨筋と大腰筋を三〇分ほど施術した後、一度立ち上がって感覚を確認してもらった。
 「なんか不思議な感覚だけど、いいような気がする!」達也の感想が、私がはじめてミオンパシー整体術を体験した時の感想と全く同じで嬉しかった。

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  二八歳の時に突然襲ってきたぎっくり腰、いわゆる急性腰痛を患ってからずっと私を悩ませていた問題が体の痛みだ。発症当時は、大病院の整形外科やスポーツ整形の名医を頼って治療法を探ったが、"腰部椎間板ヘルニア"は手術するか保存療法のいずれかとの回答が一般的だった。いまでこそ発症の本当の原因を自分でも推察できるが、当時はあまりの激痛にこのまま歩けなくなったらどうしようかという不安に駆られたのを鮮明に覚えている。ぎっくり腰の痛みは三日も寝ていれば和らいでくるので、手術までは必要ないだろうというドクターの言葉に安堵しつつ、痛み止めの服用と腰にコルセットを巻いての生活が長く続くことになった。趣味のサッカーは続けていたが腰痛は慢性化していった。季節の変わり目、天気の悪い日、激しくサッカーをした日は決まって腰が痛くなる。やがて膝も痛むようになり、捻挫も癖になっていった。三十代は両足首はテーピング、バンテージ、サポーターという三重の防御、右膝はサポーター、腰にコルセットという、側から見るとかなり痛々しい格好でサッカーをしていたことだろう。
 三十代前半はベンチャー企業経営でワーカホリック状態だったが、三六歳の時に経営陣として参画していた会社がIPO(新規株式公開)したことでビジネスの第一線から退いた。時間に余裕ができたことから、一念発起してたるみきった体を改造すべくトレーニングジムに通い始めた。ジムでのトレーニングが習慣化して六年ほどは特にひどい痛みに襲われることはなかった。このころ長女が生まれ育児が生活に加わった。腰をかがめる動作が増えていき、その一方で長女はだんだん重くなる…。長女が生まれた時期と重なるようにトレーニング内容も変わっていった。
 コアトレーニングー体幹トレーニングは今でこそ一般的になったが、当時はまだジムに通う人たちの密かな試みだった。このころは毎日のように、腹筋のインナーマッスルを鍛えるトレーニングをしていた。やればやるだけ強くなる腹筋と肉体に狂喜しつつコアトレーニングに夢中になっていった。そうして二年ほど経った二〇一三年一〇月、四四歳を目前にひかえたある日、突然あの激痛に襲われた。長女を抱きかかえようとしたその瞬間、左腰に"魔女の一撃"を喰らったのだ。長女を妻に託し、這いつくばってなんとかベットまでたどり着きやっとのことで寝転がった。
 「あれだけ筋トレして腹筋を鍛えたのになぜだ?」
 脳裏によぎったのは、なるはずのないぎっくり腰に再び見舞われたことへの疑念だった。コアトレーニングにハマったのは、インナーマッスルを鍛えて腹筋を強くすれば腰痛にならないという言説を信じていたからに他ならない。しかし、あれこれ考えていても答えが出ないことはわかっていた。これだけ多くの人が腰痛を抱えている現代社会において、明確な解決法がないからこそ、腰痛発生の理論も多岐にわたってるいるのだろう。
 本棚の奥にしまっておいた加茂淳ドクター(石川県小松市にある加茂整形外科医院院長)の「トリガーポイントブロックで腰痛は治る!」をすぐ取り出した。当時、ドクターへの信頼を失っていた私は、母から勧められたこの本を、買ってすぐに本棚にしまったままにしていた。一気に読み進めていくうちにこれまで信じていた常識は、実は間違っているのではないか?という考えが鮮明になってきた。
 「腰痛の原因は神経ではなく筋肉です」
迷いのない宣言にこのドクターの自信がうかがえた。"腰部椎間板ヘルニアは、飛び出した椎間板が神経に触ることで、痛みが生じたり、臀部や下肢部の痺れにつながる"と言われている。これまで診察してもらった全てのドクターが同じことを言っていたので、この一六年の間、私にとっては疑う余地が微塵もない常識となっていた。しかし、この加茂淳ドクターの言う筋肉原因説は一体全体どういう理論なのか?なぜ筋肉がこの痛みに関係するのか?パラダイムシフトを迫られる一方で、新しい解決法に出会えるかもしれないという期待が入り混じった不思議な感覚になった。
 早速、私はインターネットで加茂淳ドクターを調べた。「石川県か…」全国から多くの腰痛難民が来院しているらしいことはすぐにわかった。しかし、直ぐにでもこの理論に触れたいと思い、東京で同じような治療をしているドクターを探した。そうこうしているうちに、どこかで見聞きしたフレーズが目に飛び込んできた。
 "いぎあ☆すてーしょん代官山"
うーん、どこかで見たことがあるんだが、すぐに思い出せない。いぎあ☆すてーしょんのHPには「筋筋膜性疼痛症候群(MPS)研究会名誉会長の加茂淳先生が認めたミオンパシー整体術」というセールストークが記されていた。「整体か…」鍼灸は通ったことがあるがたいして効果は感じなかった。ましてや整体は医療ではないし(整体は、日本では無資格の無届医業類似行為)、まさか本当に効くはずないだろうな…」そう思いながら、中目黒の自宅からほど近い店舗名の、代官山店の地図を見て驚いた。当時、私は自宅から渋谷のオフィスまで、約二〇分の道のりを徒歩で通勤していたのだが、二〇一一年に住宅街の中にぽつんと開業したこの店舗の目の前を毎日通っていたのだ!「あの怪しげな店は整体だったのか!?」二年間全くその存在を気に止めることもなかった謎の店の正体を、この激痛の最中に知ることになるとは誰が想像できただろうか。こうとなってはダメ元でも行ってみるしかない。迷いはなかった。このころはまだ"波動の力”を知らなかったので、この運命の出会いに激痛の完治を微かに期待しながらスマホを手に取った。

当時、いぎあ☆すてーしょん代官山は予約が取れない整体院として腰痛難民の間ではよく知られた存在だった。たまたまキャンセルが出たために運良く二日後に施術の予約を取ることができた。こうして私は、この運命の出会いを、「絶対治る!」と根拠のない確信に変えていた。全てを託すかのように一二〇分という一番長いコースを予約し、その日はわずかな痛みを感じながら、普通なら歩いて一〇分の道のりを二〇分かけてゆっくりゆっくり歩いたのを覚えている。整体院は一軒家をそのまま使用した全く商売っ気のないものだった。手製の間仕切りで作られた簡易的な施術室に通されて施術ベッドに横たわった。初回はベテランの女性のセラピストが担当してくれた。セラピストが説明する痛みの原理を聴きながらゴリゴリやる整体のイメージを覆すような優しい手技に少し困惑した。しかし、今日はとにかく任せてみようと心に決め、為されるがままに二時間の施術を終えた。施術ベッドから起き上がった第一印象は、
「軽い!」
 腰の痛みはまだ少し残っていたが足が劇的に軽くなった。自分の足ではないような感覚だ。「なるほど、これなら何か変わるかもしれない。」そう思わせてくれるミオンパシー整体術の初体験だった。そして、翌週から毎週一回九〇分間の施術を受けにこの整体院に通うことになった。ここから一進一退の施術が二年続くことになるとはこの時は知る由もなかった。
 ミオンパシー整体術には、自分でも体を整えることができるという特徴がある。セルフ整体は、体に優しいヨガのようなイメージだ。私はこの整体術に深い感銘を受けたが、これまでの職歴とあまりにも業態が違い過ぎるという先入観があり、この時すぐに整体業を仕事にしてみたいとは思わなかった。しかし、毎週のように整体院に通いながら緩やかだが確実に体が変わっていく感覚を得ていたのも事実で、いつしか完璧なセルフケアを習慣化したいと思うようになっていた。
 そして、この整体術に出会って一年が過ぎた翌年の秋、できたばかりのセルフミオンパシーインストラクター基礎講座を受講し、初めて人体の仕組みについて理論を学んだ。さらに実践講座、認定講座の二つのアッパークラスを受講し、三ヶ月後の二〇一四年一二月二五日にインストラクター認定試験を受けて、晴れてセルフミオンパシーインストラクター(社団法人ミオンパシー協会が発行する私資格)の認定を受けた。こうして、この先、深く関わることになる整体業への第一歩を踏み出すことになったのだ。(つづく)


 

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