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Mountain Trail Running  ー山が教えてくれたことー

第3章 施術家

 石川直宏が調布市仙川町にあるサロンを訪れたのは、二〇一七年四月一一日のことだった。CRIACAOのアスリートカレッジが三月三一日だったので初対面から二週間も経っていない。機会があればぜひと言った彼の言葉を社交辞令と穿った自分を恥じた。この時も達也が動いてくれた。達也が一緒にサロンに来て施術を受けるという段取りだった。
 初回は山内という新人のセラピストが担当した。ミオンパシー整体術自体は二〇年以上の歴史があったが、私のサロンはできてまだ一年経っていなかった。今思うと無謀なのだが、当時は山内と望月という二人の正社員セラピストしかおらず、二人とも開業した二〇一六年夏にデビューしたばかりの新人だった。新人にプロアスリートを触らせる。のるかそるかの大勝負だが、この施術法に失敗の危険はない。そこだけが唯一の頼みの綱だったのは間違いない。効果は感じてもらえないかもしれなが、プロサッカー選手の大事な商売道具である脚を、誤って痛めてしまう心配がないのがわかっていたので、達也の尽力に応えようと心に決めた。
 淡々と施術を進める年長者の山内。施術やマッサージを受け慣れていて施術ベッドの上で落ち着きはらっている石川。隣の施術室では、たまたま同郷で同級生だった望月と意気投合しながら施術を受けている達也の笑い声が聞こえる。唯一、施術に関わっていない自分だけが緊張しているのが不思議だった。
 石川の懸念は左膝の回復が遅れていることだった。しかし、この施術法の定石通り腸腰筋を触った。
 「質が良いですね。すーっと緩んでいくのがとても分かりやすいです。」山内が状態を伝える。
 「これで緩むんですね。これまで色んなマッサージや整体を受けてきましたがこういうのは初めてですね。全く経験したことない手法なので何かワクワクしてきます笑。」石川の気遣いだろうか、受け入れ姿勢を表明してくれたことで、私の緊張が彼の筋肉以上にほぐれていくのが分かった。
 股関節屈筋群の施術が一段落したところで一度立ち上がってもらった。腰痛持ちの石川は直ぐに変化を感じとった。
 「腰が真っ直ぐ立ちますね。これですね、言われていた不思議な感覚は。これは受けてみないとわからないなー笑。」
 「じゃあ次は膝にいきますね。もう一度仰向けでお願いします。」山内が促す。左足の大腿四頭筋からアプローチする。大腿直筋は硬いが緩んでいくようだった。しかし、次第に山内の顔が曇っていく。
 「ここは、かなり変な感触です。硬いところもあるし、ぶよっとして伸び切ってしまっている筋肉も混在しています。少し手強いかもしれません。今日は時間も限られているので表面的なロックを取れるだけ取っておきます。」そう言いながら山内の施術は進む。後で確認したのだが、あんな感触はこの一年の経験では初めてだったようだ。左膝の回復が思わしくないのは、大腿四頭筋だけじゃなくヒラメ筋にも致命的に悪化した筋肉ロックが点在していることからも明らかだった。
 その日は施術の後、サロンと同じ敷地内にあるLARGOというカフェレストランで石川と達也の三人で会食をした。洒落た佇まいのカフェにはオーナーの渡辺が手塩にかけて育てた観葉植物が所狭しと並んでいる。幾人もの人たちと波動を感じる会食をすることになるこのレストランは、いつの間にか私のヴィジョン実現に欠くことのできない場所になっていた。
石川とメッセンジャーでコミュニケーションを取りながら月一回の施術を四回つづけた。全体的に質の良い筋肉がさすがのアスリートを感じさせたが、脹脛だけがひどく硬く凝り固まっていた。さらには一番の問題となっている左膝の状態が思わしくない。質の良い筋肉は変化しやすい。つまり、施術で筋肉が弛緩するのが早いのだ。石川の足は良い部分と悪い部分のコントラストがはっきりしていた。だから、一回の施術で多少軽さや柔軟性を出すことはできるが、リハビリの強度が上がると悪い部分に引っ張れるように状態は元の地点に戻ってしまう。一進一退が付き物になっている施術だが、袋小路に入る前に次の手を打つことにした。

 鮎川史園はいぎあ☆すてーしょん白金台の院長で、現役のミオンパシー整体術の施術家としては開発者松尾毅の二番弟子にあたる。私がセルフミオンパシーインストラクター講座を受講していた時の主任講師であり、山内や望月を送り込んだ整体塾の責任者でもある。白金台に移転する前は私が通った代官山に例の店舗があり、彼は大阪の松尾の元を離れ、単身上京し1人で店舗を切り盛りしてきた苦労人だ。
 院長ということで料金が他のセラピストより割高だったため、私自身は彼の施術を受けたことがなかった。別のセラピストの施術を受けながら、何度か隣の施術室で彼の説明を聞く機会があった。その理論をいつか直接聞いてみたいという思いが、セルフミオンパシーインストラクター講座の受講につながったのだ。
 セラピストではない私が新人セラピスト二人を抱えてサロンを開業するにあたり、すでに諸々相談できる関係になっていた鮎川には全面的なサポートを依頼していた。今回の石川のケースがまさに鮎川の経験と技術を頼る機会に他ならないと直感で閃いた。

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 鮎川が初めて石川の施術に当たったのが六月二七日。やはり左膝に問題は多かった。しかし、さすが熟練の技術と知識をもつ鮎川の施術は迷いなく進む。時々立ち止まり何かを確認するようにまた進む。ミオンパシー整体術に出会って四年、初めて見る熟練の施術は、新人セラピストの練習台になっている自分の現在地では想像を超えたレベルだった。「鮎川が施術すれば石川の復帰も近い」確信に変わりつつある七月末のある日、石川から電話があり一つの重大な決意を聞いた。
 「今年で引退することに決めました。」
 私の潜在意識が予感していたからかもしれないが、彼の言葉がスッと頭に入ってきた。彼の言葉にはいつも力がある。強い意志と信念が感じられるその言葉に陳腐な返事は必要なかった。
 「八月二日に発表します。妻の誕生日なんです。その前にお伝えしたくて。」
 その真摯な姿勢に感銘を受けたのはもちろんだが、以前、妻の体を気遣いサロンで施術を受けさせた愛妻家らしい石川の全ての決断が微笑ましかった。一方、私たちは一二月二日に予定されている今シーズンの最終戦までに、彼を必ずピッチに送り出さなくてはならなくなった。後に引けなくなり、デッドラインと施術進捗の睨めっこが始まった。

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 この時期、同時進行でもう一つのプロジェクトがスタートしてた。三月のCRIACAOアスリートカレッジで出会ったもう一人のJリーガー浦和レッズの梅崎司だ。石川直宏ほどの知名度はないが、この世界で一〇年近く生き残っている強者だ。一九歳の時に得たたった一つの代表キャップが、一〇代での日本代表入りが当時三人目の快挙でニュースになったのを覚えている。若くしてフランスのグルノーブルに移籍、海外挑戦の先駆者的存在だったがほどなくして帰国。その後は度重なる大きな怪我で満足な活躍ができないままベテラン世代になった。浦和レッズはスター集団でレギュラー争いも熾烈だが、その中にあって猪突猛進挑むドリブルは熱狂的で知られるサポーターの間でも一目置かれる存在だ。
 「プレーと印象が随分違うな。」セミナー会場のトイレで軽く会釈した梅崎の表情はどこか影があり繊細に映った。一年前に受傷した左膝前十字靭帯の回復が遅れているのか、それとも度重なる大怪我で自分の運命を呪っているのかその真意は定かではないが、若くして日本代表に選出されたころの輝きは感じられなかった。達也の紹介で石川同様にFacebookでつながった。その夜、メッセンジャーでいつものように奇想天外な長文のメッセージを送ったが予想通り既読スルーだった。
 梅崎と再会したのは、七月六日のCRIACAOアスリートカレッジだった。この日の演者は石川直宏。サポートプロジェクトの対象者として彼の生い立ちを知りたかったので、久しぶりにセミナーに参加することにした。彼の幼少期から今に至るサクセスストーリーはまさにヴィジョンの具現化そのものだった。イチローしかし、本田圭佑しかり、スポーツ界で一名を馳せる人物は幼少期に自分のヴィジョンを描いている。ヴィジョンが鮮明であればあるほど具現化するのだろう。
 セミナーの後の懇親会で再会した梅崎はどこか申し訳なさそうな顔をしていた。既読スルーがバツが悪いのだろうが、私はすっかり慣れっこだったので全く気にしなかった。整形外科ドクターと言ってることが真逆で、ましてやドクターでもない一般人。有名スポーツ選手に擦り寄る輩は五万といるだろうから警戒するのも無理はない。警戒心は隠せないようだったが、ここでも達也が間に入ってくれた。
 「梅ちゃん、最近調子どう?」達也と梅崎は同級生で、その会話から関係もそれなりの深さを感じさせた。梅崎はぼくの存在を気にしつつ、
 「まあまあかなー」少し苦笑いしながら当たり障りのない返事が返ってきた。その時、側で別のグループと話が弾んでいた石川がこちらの輪に加わった。
 「梅ちゃん、ミオンパシー受けてみなよ。合う合わないがあるけど、一度受ける価値はあると思うよ!」
 「直さんも行ってるんですか!?」梅崎の表情が一気に和んだのが分かった。
 「毎週一回均さんのところに行ってるよ!調子はだいぶいい感じになってきたよ。いつ復帰できるか分からないけど、近いうちにリハ(リハビリ)の強度上げられるかもしれない。」
 アスリートにはアスリートにしか解らない苦悩や歓喜があるのだろう。私があれこれ蘊蓄を並べるより、先輩Jリーガーで人格者の石川が背中を押すのが一番だった。
 梅崎が仙川のサロンに初めてやってきたのはそれから二週間後の七月二〇日だった。
 「こんちはー」梅崎は以前の影を感じさせない屈託のない笑顔で現れた。本当の彼は実直で明るい性格なのかなと思った。
 石川同様、梅崎も鮎川が施術を担当することになっていた。彼も両膝の前十字靭帯を断裂した受傷歴があり、経験一年のセラピストたちには荷が重すぎると判断した。石川を施術する鮎川を見ていると、その安定感は私のストレスを軽減してくれるのに余りあるものだった。
 「鮎川です。」
 「浦和レッズの梅崎司です。」
 挨拶も早々に施術に入った。梅崎の状態は想像以上に悪かった。膝もそうだが腰に痛みが出ていた。二〇代前半で発症した腰部椎間板ヘルニアの後遺症はきついロックとして残っていた。大腰筋は弾力がなくベトっと張り付いている感触だった。ハムストリングの状態も悪かったが、体全体の筋肉が硬くロックしているので、どこから手を付ければいいのか鮎川も困惑するほどだった。一二〇分間の施術ではできることが限られているが、痛みが出ている腰の状態を第一に考えての施術プランになった。
 施術の翌日、梅崎からメッセージが入った。クラブのトレーニングで確認した体の状態は良い感触との報告で安堵した。初めての施術でバランスを崩すケースは意外と多い。今でこそメソッドが確立しているが、当時は痛みが先か原因が先かという程度の選択肢だったので、痛みの緩和を優先しすぎると肝心な原因に手が回らずに体全体の筋肉のバランスが崩れるのだ。梅崎の体は、それが当てはまるような危険な状態で、とにかくプロジェクトの初期はトレーニングと施術を慎重に両立する必要があった。
 二日後、梅崎は大阪遠征でのセレッソ大阪戦の遠征メンバーに加わっていた。私と鮎川は梅崎がスタメンから外れたことにホッと一息ついた。「今はプレーできる状態ではない。」鮎川の見解だった。腰の動きが軽くなったが、その分下半身が付いてこない可能性がある。テレビ観戦していた画面にウォームアップを開始する梅崎の姿が映った。
 「まずいな…」
 後半残り一五分というところで、梅崎が途中交代でピッチに入ってきた。こうとなっては、何事も起きぬよう祈るしかない。左ウィングバックでの出場だ。ボールがスペースに出た拍子に一気にサイドラインを駆け上がる。そのままクロスを上げるタイミングで動きに違和感があるのが分かった。
 「ハムストリングか!?」
 大丈夫だった。この時は本当に冷や汗が出た。テレビでサッカー観戦しながら汗をかくとは思いもしていなかった。この後は目立ったプレー機会もなく、なんとかそのままタイムアップをむかえた。ゲーム後、どっと疲れが出たのを覚えている。
 梅崎にはメッセージで全てを伝えた。今どのような状態にあるのか。このままではまた大きな怪我をする可能性を否定できないこと。アイシングやストレッチをやめて体を温めてゆっくり休んで欲しいこと。早急にリカバリーの施術を入れて今後の計画を立てる約束をしてメッセージのやり取りは終わった。

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 「逆算してプランニングすると、もう時間がないので場合によっては週二回施術が必要になります。」
 引退発表をした石川直宏の状態はまだ一進一退だった。左膝がおかしい。他の受傷部位はクラブのトレーナーが目を見張るほど、どんどん改善していくが、左膝だけが違和感が残り、場合によっては腫れることもあった。「半月板の部分切除と膝の軟骨損傷が影響しているのかもしれない。」いわゆる器質異常と言われるものだ。人体は細胞が組織を再生するケースもあるが、手術によって切除したものは元に戻らない。代わりに人工物で補うケースもあるが、石川の左膝の状態は何とももどかしかった。
 そんなこう着状態に拍車をかけるように、鮎川から衝撃的な報告が入った。
 「再建した前十字靭帯が緩み始めている可能性がある…」
 石川の左膝のROMチェック(Range Of Motion)では、前十字靭帯断裂のそれと極めて似た傾向が出ていた。ここでもし再断裂したら完全にアウト、終了だ。深夜だったが石川には電話でこの事実を伝え、リハビリの強度や再断裂を防ぐための注意点を共有した。施術は左膝前十字靭帯の再断裂を防ぐことに集中せざるを得なくなった。もはや運任せ、神頼みだった。
 このアクシデントで当初、一一月に予定してたい復帰戦の目処が立たず、一二月二日の最終戦が石川が再びピッチに立つ最後のチャンスとなった。一方、FC東京はホームゲーム最終戦のポスターを石川直宏引退試合と銘打って大々的にプロモーションを開始していた。
 「間に合わせるしかない!」
 やれることは全てやる。石川本人の確約を取り付けて施術回数を増やしていった。週二回の長時間に渡る施術。これまで鮎川でさえも経験したことないような施術頻度で可能性を探った。ヒントを探そうと何度かFC東京の小平グラウンドへも視察に出向いた。練習場ではまだ満足にプレーできない石川の姿を負傷者組の中に見つけた。それでも、いつもの笑顔で必死に汗を流す彼の姿に私たちが逆に勇気づけられた。彼のこれまでの生い立ちを思い返すと、必ず運命は彼に味方するという根拠のない予感が私の脳裏を埋め尽くしていた。(つづく)


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