Mountain Trail Running ー山が教えてくれたことー
第5章 筋肉チューニング
梅崎司の施術は、腰の不安定さを乗り越えてからはゆっくりだが順調に進捗していった。週二回、浦和でのクラブのトレーニング後に調布のサロンまで足を運び、二時間の施術を受ける。夜遅くなることもあったが、それでも休まずに、体中の筋肉のロックを解除すべく施術を重ねていった。
石川直宏と梅崎司。この二人のプロアスリートの施術で私たちが得たものはとてつもなく大きかった。これまでの施術は疼痛を患っている顧客の痛みの緩和に主眼をおいていた。しかし、石川と同時進行で施術することになった梅崎は筋肉のロック現象を理解してからは、痛みの緩和という視点に留まらず、プレーのパフォーマンスアップにとても貪欲だった。引退を決めた石川より五歳若い三一歳。日本代表に選ばれた一九歳から一二年の歳月が過ぎていたが、まだプロサッカー選手としての最高の自分に出会えていないという思いが強く感じられた。年齢的には残された時間はあるものの、確固たる方向性が見つからずに目の前に靄がかかっている時に、筋肉のロック現象を知ったということだろう。
痛み緩和ではなく、パフォーマンスアップ。治療院として運営してきた整体サロンに思わぬ可能性が見えてきた。疼痛を患った顧客が普通の乗用車なら、プロアスリートはさしずめF1自動車といったところだ。乗用車ならひとまず故障を直して走れるようになればいい。一方、レーシングカーは速く走るためにテストを繰り返し、レースで故障すればそれを直して、さらに速く走れるようにする。筋肉ロックを解除するという施術の目的は一緒でも、対象者が意図する目的が全く次元の違うものなのだ。
アスリートの施術という点では、これまでマラソン選手やゴルフ選手などの来店があったので全く経験がないわけではなかった。しかし、サッカー選手のように激しいコンタクトプレーがあり、怪我が頻発する競技は初めてに等しかった。
「あれだけ筋肉ロックが蓄積している選手が、J1という国内最高峰のリーグで普通にプレーしている。他の選手の怪我の履歴と照らし合わせると、ほとんどの選手が筋肉ロックの蓄積が危機的状況だ。いつ大怪我してもおかしくない危険と隣り合わせの中で、厳しいゲームを戦っているのではないだろうか?」鮎川とそんな話をしながら世界中のサッカー選手の怪我について調査を開始した。
一番目につくのが全治二週から六週までの肉離れだった。次に多いのはもう少し重症の肉離れ。だいたい全治八週から一二週。これらを総称して”筋肉系のトラブル”と呼ばれている。そして、ニュースにすらならない足首の捻挫は日常茶飯事だった。大きい怪我は膝が多く、前十字靭帯損傷(断裂)や半月板損傷など、手術が必要とされる怪我だ。腰部椎間板ヘルニアやグロインペインなど股関節屈筋群が原因の発症も目立つ。
「どれもこれも原因は筋肉ロックだな…」 これらの筋肉ロックを低減するだけで、劇的に怪我が減り自然とパフォーマンスは上がるはずだ。プレースタイルやポジションによって微調整は必要だが、何よりやらなければならないのは、強度の高いトレーニングや毎週末行われるゲームで蓄積していく全身の筋肉ロックを”狙って取り除いていくこと”は火を見るよりも明らかだった。(スポーツマッサージ、筋膜リリース、ヨガやストレッチでも上手くやれば筋肉ロックは解除できる。しかし、深層部のロックは残念ながら、なかなか解除できない。深層部のロックが蓄積すると動脈静脈の流れを堰き止める血行障害につながり、その周りの筋肉までロックが解除しにくくなるという悪循環に陥ってしまう。)
全身の筋肉ロックを取り除く。途方もない話だが、実現できたらそれこそがパフォーマンスアップにつながる最適解になるのではないか?ロックしている筋肉は伸縮しないので現実はただの重りになってしまう。見た目がいくら筋骨隆々でも、ロックした筋肉の量次第ではパフォーマンスが予想外に低いケースも十分ありえる。そして、筋肉は伸び縮みしてこそ機能を発揮するわけだからロックして硬く縮こまったままの筋肉を再活性化させたら、短期間でパフォーマンスアップを実現することができる新しいメソッドが作れるかもしれない。想像するだけでワクワクしてきた。早速、その構想を梅崎に話した。
「すごい可能性を感じます。たしかに施術の翌日は体が軽く感じる。体重が減るわけでもないのに軽く感じるということは伸び縮みして働ける筋肉が増えたからですね。」
「まさにその通りだと思います。数値化するのは難しいけど、まずは体感を頼りに施術を進めていきましょう!」
この時から梅崎をサポートするプロジェクトが一気に加速し始めた。鮎川が受傷歴を元に梅崎の全身を指先でチェックしていく。触診による筋肉ロックのマッピングを行なっているのだ。これまでのミオンパシー整体術にはないプロセスだったが、F1自動車はたった一つの些細な瑕疵が致命的な大事故につながることがあることを考えると、この施術はまさに”チューニング”と呼ぶに相応しい緻密な作業だった。
筋肉のロック状態とサッカー選手の怪我の傾向がわかってきたので、怪我予防を最優先しつつ、重点ポイントとなる筋肉ロックを取り除いていく。梅崎は施術開始当初こそ腰の違和感が顕著だったが、過去に両膝の前十字靭帯を断裂するという大怪我を負っていたことからも下肢部全体のチューニングが大仕事になることは容易に想像することができた。そして、このチューニングの難しさは強度の高いトレーニングと同時進行させなければならないという前提条件にある。ある程度表層の筋肉ロックを取り除き、次回以降に深層部へアプローチするというプランも、トレーニング後にはまた元の状態に戻ってしまっていることがあるからだ。チューニング中は施術ベッドに横たわってるだけだが忍耐力や体力も必要とする。筋肉が緩むと急速に代謝が促進されるので疲労感がある。三時間から多い時では四時間のチューニングになる。遅々として進捗しないプロジェクトと、時間ばかりかかるチューニングに苛立つこともあっただろう。そんな、先行き不透明なプロジェクトにも梅崎は快くチャレンジしてくれた。その忍耐がプロジェクト開始一ヶ月後に早くも実を結ぶことになる。
二〇一七年八月二七日、梅崎はJ1第二四節アウェイでの清水エスパルス戦で約一年ぶりにスタメン復帰を果たした。スタメン出場を知ってからは一九時のキッキオフが待ち遠しく、テレビの前でそわそわしている自分が、不思議なくらい緊張しているのが分かった。一ヶ月前のセレッソ大阪戦当時と違い、この時期はもはや大怪我をするような状態は脱していると鮎川から報告を受けていた。怪我の心配というより、どれだけパフォーマンスが上がっているのか。理論的にはやれるはずだがプロの世界はそれほど甘くないだろう。ましてや一年ぶりの本格的な実戦ともなるといくらベテランと言えど心身ともに過度な負担が強いられる。しかし、そんな不安はキックオフ直後の梅崎の果敢な仕掛けによって見事に払拭された。ここ数年定位置になっている左ではなく右ウィングバックでの出場だった。運動量を求められるポジションで、マッチアップするのは二一歳、今売り出し中の若手サイドバックの松原后。一回り歳が違う梅崎は体力温存するのがセオリーに思えたが、予想に反し最初から飛ばしていた。そして、何より動きがとても冴えていた。松原の予想をあざ笑うかのように得意のドリブルで勝負を仕掛けていく。後手に回った松原はファールして止めるのがやっとだった。完全に主導権を握った梅崎はさらに相手陣内を攻め立てた。
ゲームは、ホームの清水エスパルスが前半三〇分に先制し、ハーフタイムをむかえた。ボール支配率はアウェイの浦和レッズが70%近くを握っており、後半の巻き返しが十分期待できた。ハーフタイムが終わり選手がピッチに戻ってきたが、気力に満ち溢れている梅崎の姿がそこにあった。「ハーフタイムにしっかりエネルギー補給しただろうか。」そんなことを思いながら、昨夜交わしたメッセンジャーの会話を眺めた。「ビタミンB、ビタミンC、マグネシウム。ちゃんと摂れてるから大丈夫だ。」
後半に入っても梅崎の動きは落ちなかった。優勝戦線に残るために格下相手には主力を温存し、省エネで勝点3を獲得したいという指揮官の期待を超える活躍だった。後半に入ってもチームの勢いは衰えない。そして、後半一九分、CKのこぼれ球をゴール前の混戦に持ち込み遠藤航の左足から同点ゴールが生まれた。あと残すは逆転勝利だけだ。その六分後、この年大ブレイクしたラファエル・シルバの逆転ゴールが生まれる。その後も攻め手を休めない浦和レッズがゲームを支配しながらタイムアップを迎えた。梅崎は一年ぶりのスタメン復帰戦で、フルタイム出場で見事期待に応えてみせた。走行距離がチーム断トツ一位の11kmオーバー。スプリント回数が19回。真夏の暑さでは異例のスタッツだった。そのことをメッセンジャーで梅崎に伝えると直ぐに返事が返ってきた。
「こんな走ったんすね!笑。びっくりです!最高に楽しかったです!心底サッカーを楽しめのは久々でした。余裕しかありませんでした笑。これも施術と栄養、そして何より意識を変えてもらえたお陰です。」
何通かメッセージのやり取りをした後、梅崎から着信があった。会話するやいなや興奮した様子がスマホから伝わってきた。三〇分ほど、ゲームの内容や、パフォーマンス、今後のリカバリーチューニングについて相談した。まだまだ話し足りなかったが、ゲーム直後の選手の回復には栄養と良質な睡眠が不可欠なので寝るよう促し電話を切った。気づくと日付が変わっていた。
このゲームを境に梅崎のチューニングへの取り組みに熱が帯びてきたのが分かった。奇想天外、パラダイムシフトを求めるこの理論に疑念が湧かないはずがない。しかし、短期間であれだけ走れるような体に戻った理由が、筋肉ロックの解除にあるのは疑いようのない事実だった。ゲーム翌日のチューニングをルーティン化し、違和感が出れば臨時でのチューニングを増やした。
それでも中々スタメンのポジションを確保できず途中出場がつづく中、シーズンも終盤に差し掛かってきた。この年の秋、浦和レッズはJ1リーグの上位争い以外に、天皇杯、ACLアジアチャンピオンズリーグという大きなタイトルに手が届く位置にいた。当然、スケジュールはタイトになり梅崎の出番が増えると思われたが監督の構想にジャストフィットしていないことがその采配からも明らかだった。怪我からの早期復帰が目的で始まった施術が、サッカー選手としてレベルアップするためのチューニングに変わっていった。梅崎とのコミュニケーションも、怪我や体調の話題から、戦術やサッカー選手個人の能力の話題にシフトしていった。予想していたスタメンから外され怒りを爆発させることもあったが、出会ったあの日の内向的な梅崎からは想像できないような、強気のメンタルが戻ってきたことが何より心強かった。
石川直宏のチューニングは左膝前十字靭帯の再断裂の懸念によって進捗に遅れが出ていた。躓いてバランスを崩すなど些細なアクシデントでも断裂する可能性はある。そのため足首の可動域を可能な限り確保するために脹脛のヒラメ筋のチューニングだけを行う日を設けた。全体的に質の良い筋肉だからこそ、ヒラメ筋の感触に違和感が目立つ。日焼けが残る褐色の石川の脹脛はとても綺麗な形をしていた。今にも飛び跳ねそうなスピードスターの脹脛だったが、その外観と違い筋肉自体は長年の酷使で悲鳴をあげていたのだ。
筋肉ロックの蓄積が多い場合、その解除には何段階かのプロセスを踏みながら緩めていく必要がある。違和感をチェックし一つ一つ筋肉ロックを丹念に取り除いていく根気のいる作業だ。石川のチューニングは鮎川がメインでコントロールするが、こうした地味で緻密さが求めらる作業は経験一年の山内が担当した。鮎川から指示があった部位を、微妙に移動させながら緩めていく。数回緩めたら一度思いきり力を入れてもらい意図的に再度ロックさせる。そして、また緩めていく。このMETという技術で隠れているロックを顕在化させる。三歩進んで二歩下がる。まさにこの言葉の通り忍耐強く筋肉と向き合う必要がある。
「このぶよっとした筋肉が厄介です。痛みは感じないですよね?」山内が尋ねる。
「そうですね、確かに他の場所に比べてそれほど痛くないかもしれません。」
筋肉ロックは触診すれば普通は圧痛がある。しかし、ロックの蓄積が多く、かつ、その期間が長い場合は痛みさえ感じなくなるほど悪化することがあるのだ。だから、触診して圧痛を感じる状態まで戻す作業が優先される。山内はMETを駆使し、足関節の可動域をチェックしながら何度も何度も同じ場所を緩めていく。施術ベッドにうつ伏せになった石川の左膝を屈曲させて足を天井に向ける。山内はスツールに腰掛けながら両手で脹脛を支え指先の感覚だけを頼りにロックを探っていく。脹脛はアキレス腱から連なるインナーマッスルのヒラメ筋が足関節の可動域に影響する。そしてその外側に大きく発達した左右の腓腹筋が覆いかぶさっている。触りわけをしながら深層のヒラメ筋にチューニングをかける。
山内は施術室に同席しながら鮎川による石川のチューニングをずっと側で記録してきた。自分がミオンパシー整体術を習った講師の鮎川の手技を間近で見続けたこの三ヶ月間の経験が、いつの間にか山内自身の技術向上につながっていることに気づいた。石川のヒラメ筋をチューニングしている山内の一挙手一投足が鮎川の姿に重なって見えた。
「脹脛は山内でも十分やれる。」
チューニングの方針を立てプロジェクトをリードするのはまだ難しいが、こうして上級セラピストのアシスタントとして顧客が改善しいく様を見ることで、経験値が高くなるならチーム体制でのチューニングは様々な相乗効果を生むだろう。プロジェクトのトップセラピストである鮎川にとっても単純作業の軽減によりこれまで以上に集中力を高めることができる一石二鳥の戦略だった。
「リハビリでも脹脛の状態の良さを感じています。チームのトレーナーも筋肉に張りが戻ってきたことに驚いています。」
石川の左膝はなんとか保ってくれるはずだ。再建した前十字靭帯の異常を未然に発見することができ、チューニング方針を修正できた。一進一退は変わらないがここ最近は明るい兆しを感じることが多くなった。
そして、いよいよ運命の日が近づいてきた。(つづく)
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