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Mountain Trail Running  ー山が教えてくれたことー

第20章 マフェトン理論 

「ラントレしたいです!」韓国でE1選手権を戦っているニコルからメッセージが届いたのは二〇一九年一二月一六日の夜。一二月二九日の皇后杯決勝で長かったシーズンが終わり、いよいよオリンピックが開催される二〇二〇年が幕を開ける。所属クラブである読売ヴェルディベレーザの始動が一月下旬なので、それまでが自由に使える貴重な時間だ。そこで、私はこの一ヶ月間の過ごし方を提案した。体のリフレッシュを図り疲労を抜く。これは週二回のチューニングと栄養改善である程度カバーできているので問題ないだろう。リスタート後のプランでは、ニューバージョン籾木結花の誕生を目的に、積み上げるべきアクションを整理した。
 ・マフェトン理論によってケトン体質化を図る。(体力アップ)
 ・ラントレによって体幹と走力を劇的に向上させる。(走力アップ)
 ・リアクティベーションによって運動機能性を高め、柔軟でしなやかな筋肉が高いアジリティを発揮する。(瞬発力アップ)
 ・ニュートラルステップとドリブル技術の向上でオフェンスの武器を増やす。(技術力アップ)
 ・山に入りどんな状況でも決して負けない強い精神力を身につける。(精神力アップ)

 このプランの実践により、これまでの上手いだけの選手から心技体が充実した本当に頼れる10番へ覚醒し、なでしこジャパン不動のレギュラーでエースの座を掴む。

「パスとドリブル。ラインとカットイン。プレー選択が多彩で、かつ一つ一つが強烈な武器になるような精度と強さがあれば、これ以上怖い選手はいない。」
「どちらも持っている選手は怖い選手ですね。もっと怖くならないと!」
ニコルは向上心に溢れるアスリートだが、明晰な頭脳も持ち合わせている。行間が伝わるので何事も進捗が早い。
「トップレベルでプレーしている選手が、同じくレベルの高いリーグの相手に対し、いきなり多芸にはなれないよね。だから、根本的に弱点を克服し長所をさらに磨く。そのプロセスを具体化すると、まず、食事療法と運動療法を組み合せたようなマフェトン理論で、脂肪エネルギーを効率的に利用するというホモ・サピエンスが本能で持っている能力を呼び覚ます。これが基礎体力のアップ。いくら走るトレーニングを増やしても、ある程度高いレベルでプレーしているアスリートの伸びしろは知れてる。だから、エネルギー代謝構造を一変させて本質的な体力アップを図るということ。

体力のベースが整って初めて第二フェーズの走力アップに入ることができる。サッカーはウルトラマラソンのようにただひたすら走り続ける競技とは違うから、ペース走に始まりインターバル走やファートレック走で心拍変動の負荷をかけてギアの入替を身体に覚えさせる。サッカー選手として一二〇分間(延長戦を考慮すると)全力で走り切ることができる走力(馬力)を身につけるという意味だな。ここまでくればフィットネスは劇的に向上しているはずだから、次はスキルアップのフェーズだ。ニコルに足りないのは何か?もう分かってると思うけど、相手のディフェンスに一対一の勝負を仕掛け強引にでも縦に突破するドリブル。これがあるのとないのとでは天と地ほどの差がある。ボランチ、ゲームメイクをする選手なら必要ないかもしれないが、エースで試合を決めるようなオフェンスの選手なら、ペナルティボックスへドリブルで侵入するという選択肢のプライオリティは高くしたい。ドリブル突破以上に、相手のディフェンスに嫌がられ怖がれるプレーはないよな。ドリブル突破が増えれば自ずとアシストが増えるのはメッシが十分過ぎる程証明してる。
 
そして、最後はいよいよ山だ笑。自然との調和で本物の野生を取り戻す。登坂のランニングは心肺機能を高めるにはもってこいだが、山ランはそれだけじゃない。地面は刈り揃えられた天然芝のピッチとは違う。自然の不整地には、木の根が盛り上がってるような障害物もあるし、ゴツゴツとした岩の塊が落ちている場所もある。草木が生い茂ってる道はどこから動物が飛び出してくるかわからない緊張感があるし、湿った泥もあれば、乾いた砂利道もある。目まぐるしく変わる環境こそ人生そのものだし、ゲーム展開にも置き換えることができるかもしれない。山は精神修行に近いんだけど、一方で恍惚感も陶酔感もあるから、サッカー選手としてだけじゃなく人として成長できるはずだよ。」
 「ちょっと不安だけど、本当に山に行ってみたいです笑」
 「ニコルにその準備が整ったと思えたら連れていくわ笑」

 年が明け一月六日からニコルのマフェトン理論の実践が始まった。糖質を完全に抜く。唯一野菜に含まれる糖質のみになるのでおおよそ一日五〇g程度になる。毎食のメニューが写メで送られてくるのだが、以前から少しずつ提案し実践してきたことなので、文句のつけようのない内容ばかりで結果は見えている。食事以外のもう一つの要素がランニングだ。サッカー選手でも走るのが嫌いな選手もいるだろう。日本代表に選ばれるほどの選手であれば、走力はあって当たり前だ。幼少期から相当量の走り込みをこなして身につけた能力だろうが、その経験が苦痛を伴うものであれば苦い記憶となって体に染み付いているかもしれない。ニコルにはランニングの重要性を事あるごとに伝えていたので、一二月はタイトなスケジュールながら時間を見つけてはランニングしてきた。追い込むのではなく楽しく走る。疲労抜きがメインだが、代謝が上がればチューニングの効果も高くなる。ゆっくり楽に走る事でもかなりメリットがあると分かれば、走ることへの抵抗感はなくなっていったようだった。実際に何度か六〇分のLSDを実施したことで、公式戦においてチーム内で二番目に多い走行距離を出せたと喜んで報告してくれたこともあった。ベースランニングは習慣化による継続性が重要になる。先に行われたE1選手権優勝のお祝いに、カンパニーからGARMINをプレゼントしたのだが、これもランニングデータの共有がモチベーションになるだろうと考えてのことだ。

マフェトン理論実践期間が始まり、ニコルからGARMINのランニングデータが送られたきた。初日は、四〇分間、6km、1km当たり六分三四秒のペースだった。マフェトン理論では、糖質エネルギーを一切使わず脂質エネルギーのみで走るので、次のような公式でランニングのペースが決まる。
 ”一八〇の公式:180ー年齢”
 ニコルは二三歳だが、本格的なアスリートなのでこの公式に3を加えた160回を、超えてはいけない一分当たりの心拍数に設定しておいた。この公式に当てはめる心拍数縛りで走るのは、軽くおしゃべりをしながらジョギングするようなペースになる。普通の人でも遅く感じるはずだから、アスリートとなると相当いらいらするペースだろう。三日間は初日と同じようなペースで四〇分間、6km走った。糖質を摂取していないが、まだ脂質エネルギーを上手く使える体になっていないので、最初の三日間はエネルギー不足を感じてふらふらすることがある。ニコルも同じような感覚があったようだが、事前に伝えておいたので心配することなく気持ちよく走れたようだった。

マフェトン理論実践の四日目、一月九日にいつもの二倍の12km走ったとの報告がきた。特に指示したわけでもなく自ら距離と時間を増やしたのだ。時間にして八〇分間。サッカーのトレーニングなら距離が決まっているので、さっさと走って終わりにしたいところだが、心拍数が決まっているのでペースを上げることができない。とにかく辛抱強くゆっくり走り続けるしかないのだ。八〇分間がとても長く感じられたはずだが、
「走り切って、思わず叫びました笑」というメッセージから、その達成感が伝わってきた。ランニングデータを見ると、心拍数の推移を示すグラフは一定のペースを示すように綺麗な横線を描いており、彼女の忍耐強い性格を表していた。そして、すでに脂質エネルギー代謝が機能し始めていることも分かった。
「めちゃくちゃ体質の変化を実感しました!もう6km走れそうでした。走っている途中に腿前が痛くなってきましたが、終わった時に疲れているという感覚は無かったです!」
達成感とともに、自分の体の変化に途轍もない可能性を感じ取ったようだった。こうなるとあとは基本に則ってリードしていくだけになる。五日目と六日目はまた四〇分間、6kmに戻して、七日目の一月一二日に計画通り二人で18km、一二〇分間のLSDを実施した。

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一月一二日、日曜日の朝八時、東急田園都市線二子玉川駅の改札口に、ランニング姿のニコルを見つけた。
「寒いけど天気もいいし、最高のランニング日和だな。多摩川の河川敷は風が強いとかなり影響受けるけど、今日は穏やかだから5kmくらい走ったら暑くなるかもな!」
距離は彼女にとって未知の領域だが、ここまで相当走り込みを続けてきたので表情に緊張感はなかった。駅の改札口から河川敷までウォームアップを兼ねて軽く走りながらスタート地点に向かった。今日のルートは、二子玉川から多摩川の東京側を多摩水道橋まで登り、橋を渡って神奈川側を武蔵小杉まで戻る18km。信号待ちがないので、一定のペースで走るには最高のロケーションでお気に入りのランニングコースの一つだ。設定したペースは1km当たり六分三〇秒なので、いつもの心拍数160を超えない一歩手前のペースということになる。未踏の距離とは言え、ニコルは現役バリバリのアスリートなので問題なく走り切るのは最初から分かっていた。唯一の懸念材料は、ゆっくり走ることで接地時間が長くなりフォームの崩れや筋肉ロックの影響で痛みが出ないかということだけだった。

二子玉川の多摩川河川敷は先の台風一九号の影響で、流木の残骸やヘドロ状になった地面が所々にその爪痕として残っていた。そんな不整地を少し走ると舗装された長い遊歩道に出た。そこからはただひたすら五kmの道のりをゆっくり走った。会話すると呼吸が乱れるので、わざと話を振りながらニコルの様子を見守った。それでもニコルは呼吸を乱すことなく一定のペースを守って走り続けていた。三五分ほどすると今日の折り返しポイントの多摩水道橋が近づいてきた。東京側から神奈川側へと多摩川水道橋を渡り、ゴールの武蔵小杉まで残り一三kmをひたすら河川敷を下る。この日は風も少なく、予想していた通り体感気温が上がってきた。折り返して3km付近で給水のためにショートレストを入れた。
「8km地点だ。体調はどう?」
「天気も良く本当に心地いいです!」
少し汗ばんだニコルが笑顔で答えた。表情から余裕が感じられたので、フォームチェックの動画を撮りながら残り10kmに向けてリスタートした。日曜日の午前九時過ぎの多摩川沿いは、多くのサイクリストにすれ違い、また、後ろから走り過ぎていく。普段は土日に走ることが少ないのでこれまであまり気付かなかったが、多くのランナーやサイクリストが行き交う週末の河川敷は、少しでも体を動かそうという人々の高い意識が集まる心地よい場所だった。

アスファルトの上は脚に負担がかかるので、しばらく走って土手の舗装道路から、道幅のが広い河川敷の土の道に移った。二子新地から武蔵小杉までの多摩川河川敷は、市民ランナーたちのトレーニング場と化していた。一〇人前後のいくつかの集団がペース走をしていた。最初にすれ違ったのはおそらく1km四分三〇秒くらいのやや速い数名。遅れて1km五分の一〇人の集団が続き、さらに遅れて1km五分三〇秒の一五人くらいの大集団がやってきた。老若男女の総勢三〇人くらいのランニングチームのようだった。数分前にすれ違った先頭集団が折り返し地点から戻って来て私たち二人に追いつき、すごい勢いで追い越していき、その数分後に次の集団が追い越していった。そして、さらに数分後に最後の大集団が追い越していったのだが、少しついていくことにした。LSD中だったので、ニコルの設定心拍数の180-20=160を超えないように気をつけながらギリギリまでペースを上げると1km五分四〇秒で、設定心拍数に近づいてきた。500mほど追走して諦めて二人で軽く笑った。ほどなく、ゴールの丸子橋が見えてきた。すでに16kmを超えている。ニコルの最長距離だったが、これまで積み上げてきたものからするとただの通過点に過ぎない、そんな感慨を覚える走りだった。
「ナイスラン!」
「ありがとうございます!」
「今日は余裕だったなー笑。来週はちょっと延ばして22kmだけど全然いけそうだな笑。」
「はい、次も楽しみです!」
ニコルはいつも前向きな答えが躊躇することなく返ってくる。半年以上の付き合いですっかり慣れてしまったが、これこそがトップアスリートのトップアスリートたる所以なのだろう。固い握手をして別れた後、クールダウンを兼ねて自宅まで走って帰る彼女の後ろ姿を見送った。歳は二周り以上違うが共にヴィジョンを実現する同志として、彼女の成功をどこまでもサポートしていこうという思いを再確認することができた初めてのランニングセッションだった。

前回のLSDから一週間後の一月一九日、二週間のマフェトン理論実践の総仕上げとして前回よりさらに長い22kmのLSDを実施した。今回は一八時スタート。すでに陽は落ち、真っ暗闇の多摩川沿いを武蔵小杉から狛江の多摩水道橋までの11kmを往復するプランだった。一八時一〇分前にスタート地点側のコインパーキングに車を停めた。ヘッドライトを装着しランニングサポートの準備を整えてスタート地点に向かうと、寒空の下、手を擦りながら私の到着を待っているニコルが高架下の暗闇の中に立っていた。(つづく)
 


 

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