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Mountain Trail Running  ー山が教えてくれたことー

第12章 走る

「ニコルの体脂肪率はどれくらい?男子サッカー選手は12%以下って制限して話題になった監督がいたけど笑。女子選手なら15%〜18%くらいか?」
 「食事の量は変わってないか、むしろやや減ってるのに、ここ一年で体脂肪率が増えてます。22%を少し超えています。理由はちょっと分かりません。」
 「なるほどね。きっと代謝の問題だな。浮腫みもあるみたいだから、老廃物などが溜まりやすく、うまく流れてない可能性はあるね。静脈側に問題があるのかな。それと、さっき話した脂肪をエネルギー源としてうまく使えていないのはほぼ確定だろうな。エネルギー代謝回路を変えるのは食事制限もセットだからシーズンオフにトライするとして、取り合えず徐々に走れる体にしておきたいね。」
 
 衝撃的な二冊の本との出会いから、まだ走り始めてもいないのに、すっかりランニングの魅力にハマってしまっていた私は、二〇一八年一一月四日、アップルウォッチが家に届くと、セットアップもほどほどに寒空の下へ駆け出していた。
 最初の二ヶ月間、つまり年末まではエアロビックベース(有酸素運動能力)を作るために心拍数を意識したジョギングに徹した。マフェトン理論を完璧に実践するにはこのエアロビックベースができていないと難しい。計算方法はシンプルで前述の通り”180ー年齢”だ。私は競技志向のサッカーを続けていたので普通の人よりは心肺機能が強いはずだった。だからこの計算式に5を足して136回/分を超えてはいけない。この数値を超えたら歩く。心拍数が下がったらまた走る。これの繰り返しだ。マフェトンが提唱する糖質制限を、”偶然にも”三ヶ月前から実践していた私は糖質の飢餓状態がすでに出来上がっていたので、この低心拍数ジョギングを直ぐにスタートすることにした。
 今では考えらえないが、走り始めた当時はこの一分間に136回という心拍数を超えないペースは、だいたい七分三〇秒/kmというかなりゆっくりなスピードだった。(ランニングを一年間続けた頃は、同じ136回の心拍数で四分五〇秒/kmまでペースが上がった)三〇分でちょうど4km走れることになる。一週間経過した頃には、七分/kmまで三〇秒だけペースを上げることができた。「NATURAL BORN HEROES 人類が失った”野生”のスキルをめぐる冒険」で著者がトライしたのと同じような300mほどの急な坂道が自宅の近くにあったので、ジョギングのラストはその坂を登るコース設定にしておいた。毎回坂の中腹辺りで心拍数は制限値を超えていた。
 5km三五分のジョギングをさらに一週間続けてペースは六分二〇秒/kmまで上がり5km三二分のジョギングに変わった。それでも相変わらずラストの登坂は中腹よりやや進んだ2/3地点までで心拍数は制限値を超えた。まだまだ登り切るのは難しかった。その後、年末まで六週間はこのペースを守った。既に脂質のエネルギー代謝に切り替わっていた可能性はあるが、ランニング脚をしっかり作るという意味で念には念を入れた。年の瀬が迫る一二月三〇日には登坂が3/4まで出来るようになっていた。そして、大晦日に10kmを走ってみた。ここ数年10kmも走った記憶がなかったので不安もあったが、終わってみれば五三分で走り切ることができた。結局、この年の走行距離は約二ヶ月間で360kmだった。
 糖質制限だけでは微減だった体重もジョギングを加えた二ヶ月間で、体重が64kgから61kgへ3kg減。体脂肪率は11%から8%へ3%も減った。明らかに体脂肪をエネルギーとして利用する回路に切り替わったと考えらる。そして、最大の発見こそ有酸素運動による血液循環の最適化だ。予想していた通りチューニング精度が上がってきたのだ。チューニングの度に緩みやすかったり緩みにくかったりとムラがあった筋肉の質が平準化してきたのだ。筋肉ロックは概ね六〇秒くらいで変化していくようになった。これまで九〇秒かかっていた部位も全体的に筋繊維の活性化に必要なエネルギーが満ち足りている感覚だった。酸素と栄養素の供給と二酸化炭素と老廃物の回収のサイクルを最適化させる、この有酸素運動の効果はほぼ間違いないだろう。
 年が明けて二〇一九年一月から走る距離を少しずつ伸ばしていった。そして、一月一五日、人生で始めて20km走ることができた。つい半年前、近所に住む知人が「今日は20km走ってきました!」と話していたのを別世界の人の話だと感じていた。なぜそんなに走れるのか?何がそんなに楽しいのか?私の思考の限界は10kmだった。苦しくてもう二度と走らないと心に誓いながらやっと完走した遥か昔の記憶だ。その尺度から考えると20kmは二倍の距離。「無理だな…」直感がそう判断する距離だった。脳が無理だと判断していたことが実際に出来たのだ。自宅から二子玉川に出て多摩川沿いを武蔵小杉まで走る10kmのコース。往復すれば20km、少し前にGooglemapで確認していたルートだ。この時からすでに思考は解放されていたということだろう。いつ思考の天井が外れたのか?二ヶ月で360kmを走ったことも、一二月は毎日欠かさず走ったことも、全てが初体験であり、この過程が徐々に自信となっていったのは間違いない。思考の天井が外れ、目の前にヴィジョンとなって現れる。ランニングというホモ・サピエンスの本能を呼び覚ます作業が、思考までもクリアにしていく。そんなことを考えなが川沿いの直線道を黙々と走っていると、気付くと目前に高層マンションが立ち並ぶ武蔵小杉の街が見えてきた。「10km来た。意外と疲れてないな。」あっさりとした折り返し地点だった。折り返しで少し給水し、来た道を走って戻る。折り返し地点を過ぎると残りの距離が縮まっていくので精神的にも随分と楽くになる。景色を眺める余裕が出てきた。心拍数は上がっていない。それどころか一定のペースで走ることでエンジンがスムーズに回転し、エネルギー消費が最適化されているようだった。「この感じならまだまだ走れそうだな。」自宅付近に戻ってきたらアップルウォッチの表示が19kmになっていた。さすがに筋肉に疲労を感じたが最後の1kmを走り切り初めての20km走が終わった。タイムは一一〇分。約二時間も連続で走ったことになる。距離もさることながらこの継続時間に驚いた。サッカーで九〇分走るのは本当に長く辛い。ダッシュ、ストップの繰り返しなのでほぼ糖質のエネルギーを使っているのだろうことは理解できる。脂質のエネルギーに代謝回路を切り替えるだけでこれほどにも感覚が違うのか。
 そして、自分でも驚いたことに、思いの外疲労が溜まっていなかった。その証拠に、次の日は五〇分で10km走をこなし、その翌日は6kmのリカバリーランでの疲労抜きを挟んで、中二日で25km走ができたのだ。走るモチベーションが自然と湧き上がることが疲労蓄積の少なさの表れでもあるが、一五〇分かけて走り切れたことが充実感とともに適度な疲労となって残っただけだった。これこそ、筋肉ロックの低減と有酸素運動による体循環の最適化の表れだろう。もちろん栄養素をしっかり摂取しているがゆえでもある。 だが、それでも痛みは増してきた。18km付近で右膝鵞足と右足首に激痛が走ったのだ。これまで使ってこなかった筋肉に刺激が入ったことで筋肉ロックがはっきり顕在化したのだ。翌々日、Labで望月にチューニングしてもらった。やはり右脚の股関節屈筋群から大腿四頭筋、ハムストリング、ヒラメ筋及び腓腹筋の脹脛、足底まで筋肉がピーンと張った糸のようにガチガチに硬くなっていた。しかし、ATPブーストとマフェトン理論に則った高タンパク質とで栄養状態はベストの状態だ。さらにランニングによる代謝効率のアップによってチューニングは以前のそれとはまるで違いどんどん進捗していった。一八〇分のチューニング後には痛みはすっかり消失し、また翌日からランニングを加速することができた。ランニングの走行距離で強度を高めて潜在的な筋肉ロックを顕在化させる。それをチューニングで消失していく。この改善サイクルはメソッドに組み込めると確信した。
 25km走を行ったちょうど一週間後に30km走にチャレンジした。この時はもはや距離への壁はなかった。着実に積み上げれば距離は確実に伸ばしていける、そんな思考に変わっていた。この時も20kmを超えた辺りで右膝と右足首に前回と同じような痛みが出た。「まだ筋肉ロックが残っているな。」私は冷静だった。筋肉ロックが痛みの原因だからランナーズニーは致命的な怪我ではないと解明していたからだ。一七〇分のランニングの翌日、望月に一二〇分のリカバリーチューニングをしてもらった。痛みは消失したが、時間が足りなかったため違和感が残った。翌日、10kmのテンポ走を行ったがやはり痛みが出たので原因となる筋肉ロックを完全に解除するために、その翌日は鮎川が一八〇分、望月が一二〇分の合計五時間に渡る戦略的なチューニングを実施した。やはりいつもの部位にロックが顕在化していた。しかし、確実にその量が減っているのが確認できた。前半の望月が表層の筋肉ロックを解除して、後半の鮎川に交代した。鮎川は今日の目的をしっかり理解していた。「確実にロックを消す。」股関節屈筋群は腸腰筋と臀筋群をMETを入れながら何度も何度も緩めた。大腿四頭筋、ハムストリングと内転筋群にそれぞれしつこいロックが残っていたが時間の許す限りチューニングをかけた。そして、最後に脹脛を緩めて右脚は完了した。バランスを取るために左脚もチューニングをかけてあっという間に五時間が経過した。五時間のチューニングはセラピスト同様にただ寝ているだけの被験者も疲労が伴う。筋肉が活性化するために相当量のエネルギーを使うのだ。チューニング中はBCAAドリンクをこまめに飲み、途中休憩では高タンパク質食のランチを食べて栄養摂取もブーストした。
 その翌日、筋肉ロックの状態をチェックする目的で23kmのテンポ走を行った。20km付近がターゲットだったがこの日は痛みは出なかった。筋肉ロックは確実に減っている。まだ完全ではないが、進むべき道は間違っていないだろう。
 一気に走行距離が伸びた一月は合計314km走ることができた。300kmを超えたがもはや自分が走った距離に驚きはなかった。しかし、ランニング歴三ヶ月目で月間走行距離が300kmを超えるということがどういうことなのか客観的に理解することできなかった。ランニング情報を、市民ランナーのブログやアスリート系のサイトでチェックすると、そこには走行距離と怪我の発生リスクの関係がところ狭しと載っていた。予防策から発症した後の回復プロセスまで多岐にわたる情報が満載だった。それほどランナーにとって痛みは切実なのだと知ったが、どこを探しても「筋肉のロック現象」の概念は見つからなかった。予防法としてはフォームの矯正や、アイシングやストレッチなどだが、筋肉ロックの概念が加わると予防法も変わるだろう。怪我の種類として、ランナーズニー(腸脛靱帯靭帯炎)・鵞足炎・ジャンパーニー(膝蓋靭帯炎)・シンスプリント・アキレス腱炎・足底筋膜炎など挙げ始めると切りがないが、これらはほとんど筋肉ロックが原因であり、適切な栄養摂取とセルフケア(セルフ整体)で改善できる。なぜなら、疼痛罹患者にとって最も導入へのハードルが高いランニングという運動療法(代謝促進)をすでに実践中だからだ。
 ランニングを初めて四ヶ月目の二月二日、さらに距離を伸ばし33km走を実施した。ただ、この日も痛みは出たが前回より7km長い27km地点だった。筋肉ロック自体も減っているが、筋力も強化され確実に耐久力がついたのだろう。今回27kmまで痛みが出ることなく走ることができたので、このように距離を徐々に伸ばしていくテスト走を終了し、二月は12kmから15kmのテンポ走を増やしていくことにした。一月の疲労を抜きながら、一方で中程度のペースを維持して走り続けるためのランニング脚を作る必要を感じたからだ。
 そして、二週間しっかりテンポ走を繰り返し疲労も抜けてきた頃、ランニングを始めて三ヶ月が経過した区切りとして、二月一五日にハーフマラソンの距離に当たる21.1kmを全力で走ってみた。いつも通りウォームアップはなし。あくまで狩猟採集民の持久狩猟スタイルにこだわる。初めて20km走った、自宅から二子玉川を経由して多摩川沿いを武蔵小杉対岸の丸子橋までの10.5km地点で折り返すコースだ。

ウォームアップがないので当然のことながら前半はペースが遅い。やや向かい風という条件が重なり折り返し地点でのタイムは五四分だった。三〇秒で給水を終えて後半をリスタートした。後半は前半と打って変わってペースが上がった。多摩川沿いは障害物がないので風の影響をもろに受けやすい。前半の向かい風は、追い風となって疲れが出る後半に加勢してくれた。やはり半分を過ぎると残り距離をカウントするのでメンタルが楽になる。ラップタイムを計算しながら気づくと一〇五分(一時間四五分は単純計算でサブ三・五)を切ることができそうだった。最後の二kmはバテたが納得のいくタイムトライアルだった。
 結局、タイムは一〇四分。単純計算はできないが30km以降の失速を考慮するとマラソンでサブ4・〇程度のランニングレベルだろうか。すでに右脚の膝と足首に痛みは出ない体に改善しつつある。走行距離を伸ばしながら痛みを改善するという”常識”とは真逆の方法を証明する実験としてもランニングは効果的だった。とは言えまだまだランニング初心者には変わりないのでフルマラソンの距離にチャレンジするのは早計だと考えていた。まず、ランニング歴一年でハーフマラソン九〇分を切る。当初設定した年間走行距離3,000kmという目標に新たにタイムという高いハードルを追加することにした。(つづく)


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