見出し画像

Mountain Trail Running  ー山が教えてくれたことー

第17章 雲取山

 二〇一九年九月七日、八時二〇分にJR青梅線奥多摩駅に着くと西尾が先に電車で到着し、私と望月の到着を待っていた。奥多摩駅からは、登山口の鴨沢までバスに乗る予定だった。出発まで二〇分ほど余裕があったが、このバスを逃すと次は一時間以上待つことになり一日の計画が大きく狂うことになる。駐車場で急ぎランニングの準備をしバスに乗り込もうとした私たちの前に、ランニング姿をした一〇人ほどの男たちが現れた。短く整えられた髪、鍛えられた肉体が一瞬ランニングチームかと思わせたが、明らかにトレラン用の物ではないシューズを履いている者が数名混ざっていたので少し違和感が残った。リーダーらしき男が先頭で同じバスに乗り込んできた。私たち三人を明らかに意識している視線を感じた。
 「自衛隊じゃないですか?」望月が呟く。以前にも山で同じような集団に会ったことがあるらしい。言われてみれば確かに条件は整っている。
 バスは奥多摩湖班の急カーブを慣れた運転で進んでいく。途中いくつか登山口の案内が流れたがその集団は降りることなく数人がトレランとは関係ない話をして盛り上がっていた。「彼らも雲取だな」そう思っていると鴨沢が行き先掲示板に映し出された。
 三〇分ほどバスに揺られて鴨沢に到着した。登山口にあるトイレに寄るとさっきの集団のリーダーらしき男が話かけてきた。
 「ルートはどちらですか?」
 「雲取から奥多摩駅に抜けます。」
 「長いコースですね。我々はピストンです。」この辺は慣れている風をアピールしながら競争心を少し匂わせた。
 「では、お気をつけて」そういうと一〇人の自衛隊らしき集団が先に山に入っていった。
 「いかついな。あれは自衛隊だろ。全員がランナーじゃなさそうだけど、自衛隊なら普通に山も走れそうだな。」そんな会話をしながら時間を潰し、彼らから少し間を開けてから私たち三人も山に入って行った。時刻はすでに九時三〇分を回っていた。
 雲取山は、東京都・埼玉県・山梨県の県境にあり、標高は2,017mで東京都唯一の日本百名山だ。計画ルートはトレランでは初めての30kmを超える32km。ピストンの場合20kmほどだか、帰りのバスの時刻に合わせるのが面倒なので、車を駐車した奥多摩駅まで一気に下ろうと考えていた。山を走る時の距離はロードの1.5倍くらいあると言われている。急斜面の登坂など疲労度はおそらく2倍はあるだろう。つまり、今回の雲取山32kmはフルマラソン以上の強度になる。大山では苦い目にあったが、それから一ヶ月経験を積んで走力もアップしている。 「今回は大丈夫だ。」痛みがどこで出るかわからず不安気な二人をよそに、私はやけに体調が良くモチベーションの高さを自覚していた。
 深くしつこい筋肉ロックを右脚外側広筋に抱えている西尾は、山の下りに問題を抱えていた。このところのトレランでは下りで必ず問題の部位に痛みが出ていた。筋肉ロック由来の痛みは一度出てしまうとセルフ整体だけでは完全に治めることはできない。この日の前半も西尾はいつも通り自重気味だった。

 社会人サッカー九州リーグのHOYO大分(現JFL所属のヴェルスパ大分の前身。JFLは日本フットボールリーグでアマチュア国内最高峰のリーグ。)でプレーしていた西尾直輝は、プロサッカー選手を目指していた本格派の元アスリートだ。長きにわたり厳しいトレーニングに耐えてきた証がその逞しい下半身に現れている。慢性的な股関節痛に悩まされ二〇代半ばでプロの道を諦めざるをえなかったのは、今こうしてプロのトップセラピストとし活躍することを予見していたのかもしれない。
 西尾と知り合ったのは今から六年前の二〇一三年一二月、二六歳の若者を友人がフットサルに連れてきたのがきっかけだった。プロサッカー選手を目指していたと聞いたその腕前はさすがの一言でサッカー選手として格の違いを見せつけられたのが鮮烈だった。その時は夕食を共にして終わったが、その後はたまに私が運営するサッカークラブに助っ人で顔を出してくれるなど適度な距離感で親交を深めていった。この頃の西尾は、まだプロサッカー選手を諦めてから時が経ていないということもあり、将来どうしたいなど明確なヴィジョンはないようだった。知り合ってちょうど一年が過ぎたころ私がセルフミオンパシーインストラクターの資格を取るのだが、その効果を試したい時期だったので、股関節痛を抱える西尾をトレーニングジムに誘いミオンパシー施術で股関節屈筋群を緩めてみた。「少し変わったかな?」そんな感想だった。体全体の筋肉ロックが多く、常に股関節がピリピリ痛む状態だったので一回ではなかなか実感が湧かなかったのかもしれない。
 しかし、その三ヶ月後の翌年三月に、私が講師として自ら開講したセルフミオンパシーインストラクター基礎講座を受講してくれることになったのだ。西尾なりに将来の自分のヴィジョンの実現にこの技術と知識が役立つと考えていてくれたのだ。私がたった一回きり開講したこの講座の、たった二人の受講生のうちの一人が西尾だった。こうした縁は良縁として続くことが多いのも事実だろう。講座自体は四週間で終わる軽いものだったが、第二ステップにあたる実践編を、私が熟慮の末、開講しなかったためにそこから彼とは二年ほど疎遠になった。
 転機は私がミオンパシーサロンUROOM一号店を、二〇一六年八月に調布市仙川町にオープンした時に訪れた。オープンに合わせて、山内、望月という二人のセラピストを採用したが、ベッド数や採算の面でも何とかもう一人仲間を迎い入れたいと考えていた。そこで、以前ミオンパシーに興味を示してくれた西尾に、久しぶりにコンタクトを取りサロン運営事業のことや将来のカンパニーヴィジョンについて説明した。まだミオンパシー整体術への可能性を失っていなかった西尾は、しばらくして私の期待通りセラピストへの転身を決意してくれた。早速、鮎川に西尾の指導を依頼し、この年の一二月からマンツーマンでの整体塾がスタートした。
 西尾が幸運だったのは、当時最高レベルのセラピストだった鮎川が、たった一人の受講生である西尾を手取り足取り指導してくれたことだ。それからの四ヶ月間に渡る”修行”が、西尾を、二〇一七年四月のデビューからたった二年でMMNの一角を担う精鋭セラピストへ駆け上がらせることになる。
 振り返ると、セルフミオンパシーインストラクター基礎講座を受講していた四年前の西尾は、「サッカーの監督としてスペインリーグのピッチに立つ」というヴィジョンを熱く語っていた。あれから多くの知識を得て、三〇〇〇時間近くの施術経験を積んだ現在(執筆当時からさらに二〇〇〇時間の経験を積み重ねて五〇〇〇時間に到達)、人体の構造はもちろんのこと、アスリートのパフォーマンスを劇的に改善させることができる特殊技能を身につけた新進気鋭のトレーニングセラピストとなった。そして今も、ヴィジョンの実現に向けて、その道程を着実に快走している。

 一〇分ほど走ったころだろうか、前方に一〇人の男たちの集団が視界に入った。すでに歩いてる。やはりトレイルランナーではなかったのか。
 「大隊長、後続に道を開けてください!」最後尾の男がこちらに気づき大声をあげた。やはり自衛隊だった笑。礼儀正しく道を開けてくれた集団の脇をゆっくり追い越していく。先頭のリーダーらしき男が声をかけてきた。
 「ご苦労様です。お気をつけて!」
 「ありがとうございます。後ほど」挨拶を交わし走りすぎた。山での挨拶は普通のコミュニケーションだ。自然と交わす言葉や会釈が本当に気持ちが良い。山にいると、ここには平和しか存在しないのではないかとさえ思えてくるのだ。
 雲取山は走りやすい山だった。百名山、2,000mと聞くと難易度はそれなりに高そうだったが、この山は初心者でも観光登山として気軽にチャレンジできる山のようだった。鴨沢の登山口が標高500m、12kmかけて1,500m上るので、計算上はあの大山よりも同じ距離で300m高く登ることになる。しかし、この一ヶ月で三回のトレランをこなして経験を積んだ。エネルギー代謝についても懸念点は払拭している。登りでも歩くことが少ないトレラン向きの良いコースだ。そう思いながら進んでいく。途中、勾配がややきつくなることはあったが、山頂付近にはヘリポートがあり、この後の百名山で経験するようなピーク付近の大きな岩場や急登坂はなかった。山頂の避難小屋の状態も良い。さすが東京都唯一の百名山と言った整備具合だった。下山で少し迂回し正規ルートに戻ると、前方にさっきの集団を見つけた。きっと、あの後走って私たちより少し遅れて山頂に着いたのだろう。私たちが迂回して時間をロスしている間に、追い越してまた前にいるという寸法だ。山頂付近では一度も見かけなかったのでだいたい二〇分遅れくらいだろうか、まずまずのペースで走ってきたことになる。最後尾付近の男が私たちに気づき道を開けてくれた。全員を追い越した後、大隊長が笑いかけてきた。
 「お先にどうぞ。」
 遠慮なく追い越すと、今度はやり過ごすのではなく後ろから走って付いてきたのである。一〇人のいかつい男たちが勢いよく追走してくる様は迫力があると同時に少し滑稽だった。先頭を走る私はスピードを上げた。西尾と望月にはその意図が伝わったのだろう同じようにアクセルをフルスロットルに踏み込んだ。
 「突き放すぞ。」
 500mくらい下ったところで登り返しがあった。一気に乳酸が溜まるようなロケーションだったが、力の限り全力で駆け上がった。丘の上まで走り切り後ろを振り返ると後続の男たちは息が上がって走れなくなっていた。西尾と望月と目を合わせ、さらにそこからペースを上げて駆け下り、完全に彼らの視界から消えることに成功した。奥多摩駅に抜けるルートと、ピストンで鴨沢まで戻るルートの七ツ石山分岐点まで来たところで休憩した。
 「レースってあんな感じか?笑。きついけど面白そうだな。」この時はそんな会話をして笑っていたが、この”遊び”が望月の膝をじわじわと痛めつけていた。
 少し休憩した後、上りでは巻道で迂回した七ツ石山を登頂し、続く鷹ノ巣山も登った。この地点で22km、残り10kmを下るだけだ。鷹ノ巣山の下りあたりから望月の様子がおかしかった。長身を活かし大きなステップで勢いよく下っていくいつもの覇気がない。登りからちょくちょく気にしていた膝の調子が悪化したのだ。

画像1

「トレイルランナーはみんなテーピングするんですよ。レースではテーピング持参が義務付けされます。」真剣にトレランにチャレンジしようと考えている望月の情報量は多い。
 「テーピングが常識なら、そりゃダメだろ。」筋肉ロックがなければテーピングは必要ない。必要ないどころかテーピングは一つ間違えば大怪我の元なのだ。狩猟採集民だった先人はテーピングをしない。タラウマラ族もテーピングはしない。子どもでもテーピングはしない。ヒョウやライオンもテーピングはしない。私は、つい四年前まではテーピングをしていた。二〇年来のヘビーユーザーだった。しかし、筋肉の本質を学び、筋肉ロックこそが怪我や痛みの原因だとわかってからは、筋肉を緩めて本来あるべき姿に戻すことに専念した。筋線維が伸縮自在の柔らかさを維持していればそれが緩衝材になる。捻挫や着地での負荷に耐えられないのは伸縮しない筋繊維が多いからに他ならない。現に私は、チューニングが進捗してからは一切捻挫はしない。サッカーのゲームでもランニングでもテーピングもバンテージも一切しないのだ。筋肉の伸縮性こそが予防策であり、それ以外にはあり得ないと断言する。テーピングをしなくても良い状態を作り出せば、人はいくらでも走れるし、たとえ怪我をしたとしても軽傷ですむ。靭帯が断裂することはめったにないだろう。
 テーピングすれば痛みが消えるならそれは根本原因から目を逸らしているだけなので、いつか大怪我をするか、もしくは日々血流が悪化しているのを放置していることになる。また、物理的にも股関節屈筋群が硬くロックしている選手が(現代のほとんどのアスリートが)足首をテーピングで固定していれば、不意にニーインした時に前十字靭帯を断裂してしまうリスクは相当高いと言わざるを得ない。
 望月や西尾もテーピングを使わない。痛くてもその原因が手に取るように分かっているからだ。
 「まだまだ自分はロックが多いです。戻ったらケアします。」望月の言葉にプロフェッショナルの気概を感じた。これほど痛むと普通は整形外科に通うだろう。湿布と痛み止めをもらって痛みとおさらばだ。しかし、筋肉ロックはそのままなので、またすぐに痛みだす。そしていつか大怪我をするのだ。
 私たちは痛みの原因を知っている。だから、今は痛みが出ても焦らないし、不安にもならないのだ。どこに原因があるのか人体図とにらめっこするだけだ。こうして山を走って筋肉ロックを顕在化させることは、ホモ・サピエンスの本来の姿へ戻るための最短距離だと考えている。
 研究対象としてチューニングを多く受けている私は、二人より筋肉ロックが少ないだろう。年齢は一七歳違うので筋肉ロックの蓄積は多かったはずだが、この二年間で相当量の筋肉ロックを低減することができた。私にとって残り10kmは余裕だった。西尾は前半自重したこともあり、この日は右脚外側広筋に痛みは出なかった。望月は痛みで走れなくなり残り3kmを歩くことになった。望月にとっては苦い経験となったが、これが糧となりセラピストとしての経験値を高めたことに疑いの余地はない。九時三〇分に入山した雲取山トレランは一七時二〇分に奥多摩駅に到着して終了した。初の日本百名山の山行は休憩を入れて八時間だった。ランニングとしてもこれまでの最長記録となり一つ壁を超えた実感を得た。(つづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?