選手が躍動するクラブの姿
プロサッカークラブの現場
本格的にプロアスリートの體のケアをするようになり、なぜ選手が簡単に壊れてしまうのがわかってきた。現代医療が筋拘縮の蓄積による弊害を甘く見ているというのは当然だが、率直に言うとそれ以上に組織全体が技術向上や戦術理解度に重きを置き過ぎているからだ。本来であれば、実際にピッチでプレーする選手の體についてもっと掘り下げて手厚くケアしてしかるべきだと感じるのだが、何せ選手はクラブと契約した個人事業主なので、組織にとって契約相手である選手一人一人の質を担保する動機づけが薄いのだ。つまり、誤解を恐れずに言えば、「所属選手が壊れても、市場にはいくらでも替えがいる」というのがこの業界の実態なのだろう。特に若い選手は短い契約期間中に実績をつくり世間に名を上げて、所属クラブから"守るべき大切な契約相手"という商品価値を認めさせないと明日をもしれない非情な環境と言えるのだ。
この前提条件で選手心理を考察すると、とにかくゲームに出るためにやれる事は何でもやる。過度に鍛える、追い込む、痛みがあっても我慢する。栄養摂取の現状を垣間見れば人體の本質が常識の範疇外にあるこの業界では最高のコンディションをつくるための休息という考えは二の次になるのもうなづける。そして、若ければ若いほど無理も利くので、選手自身がきついトレーニングを進んでやる傾向にあるようだ。だからすでに20代前半でほとんどの選手に筋拘縮の蓄積が見られるし、重心となる臍下丹田周りの股関節屈筋群がまともに伸縮し十分に機能を果たしている選手にはお目にかかった事がない。つまり、いつ怪我してもおかしくない状態の選手がほとんどなのだが、クラブの現場の感覚としては、怪我はつきものであり、怪我に強いのは体質であり、怪我をするかしないかは運次第なのだろう。
監督の権限
選手の体調管理やパフォーマンスの向上を責務としているフィジカルトレーナーにも言い分はあるだろう。しかし、現場の歪さがわかっていても全権を握っている上司の監督にどこまで現状を伝える事ができるだろうか?さらにその上のGMへ危機を伝える事ができるだろうか?もし監督に人體の本質への理解がなければどうなるか?場合によっては諫言になることもある。自分の首を賭けてまで選手を守ろうというトレーナーがいれば、こんなに選手が壊れまくる事はないだろうし、平氣でコロナワクチンを打つ事もないだろう。そもそも自身がコロナワクチンを打つようなトレーナーに人體の本質が理解できているとは到底思えないのだが。
さて、コロナワクチンの話は本題ではないので今回の記事では横に置いておき本題の組織論に入る。クラブにはそれぞれヴィジョンがあるだろうが、ここではその一義的目的をリーグ戦の優勝として考えたい。この目的を達成するためには、監督の理想とする戦術を選手たちがピッチで存分に表現し生き生きと躍動するのが最も重要となる事に疑問の余地はないだろう。そうならば、フィジカルトレーナーにこそ選手が公式戦に100%の状態で臨むという責務があるはずなのだ。それは監督と同等か、もしくはそれ以上に。しかし、実際はフィジカルトレーナーは監督の部下に当たる。ここに現状の組織の不合理さがある。新しい組織案はGMの下にゲーム監督とフィジカル監督を置く。週3.5日がゲーム監督、週3.5日がフィジカル監督という時間配分にするのだ。
・ゲーム監督の責務:チームを公式戦の勝利に導きリーグ優勝を成し遂げる。
・フィジカル監督の責務:選手の怪我を未然に防ぎパフォーマンスを上げる。
人體の本質を理解しているフィジカル監督なら、3.5日の監督権限を使って2日間は完全なOFFを設定するはずだ。我々の施術現場の実証からは、週1回90分のゲームに全精力を集中した選手は、チューニングスペシャリスト(トップセラピスト)が2人がかりで2時間のチューニングを2回施しても現状維持がやっと。多くのクラブが設定している1日のOFFでは氣休め程度のリフレッシュにしかならず筋拘縮の解除はほぼ不可能だろう。チームのトレーナー以外に個別で治療家の世話になっていたとしてもプロアスリートの本氣の高出力の負荷による筋拘縮は簡単には解除できない。これは鍼灸師でも無理だろう。筋拘縮は経年の蓄積なので針が届きにくい深層筋はほぼ手付かずの状態でシーズンを経過していく事になる。シーズン中盤から終盤にかけて怪我が頻発するのだが、業界の常識としては「疲労の蓄積」と、さも当たり前とばかりに抽象的な原因で片付けられるが、これほどいい加減な解説もないだろう。怪我は筋拘縮の蓄積による酸欠とそれに伴う質的栄養失調による筋肉の不活性が原因なのだ。テレビの解説者が「また筋肉系の怪我ですね」という台詞は聞き飽きた。怪我は偶発的な事故ではなく、監督者による過失と断言しておきたい。大怪我をした選手がよく口にする「強くなって帰ってきます!」という言葉が全ての無知を物語っている。これは多くの人が嫌うであろう悪しき精神論であり、実際は怪我をすればするほど弱くなる。特に手術をすればするほど筋拘縮が蓄積するし、半月板や骨を削れば體のバランスが崩れていくのは火を見るよりも明らかだが、痛みの原因について間違った理解をしている整形外科が無駄な手術を助長している。半月板の手術は一切無用で無駄。ややもすると手術でも筋拘縮が蓄積するのでデメリットがまさるかもしれない。手術は複雑骨折、筋断裂、靱帯断裂の場合だが、これさえも日々の筋肉チューニングで未然に防ぐ事が可能なのだ。
トレーニングの未来
監督権限を大胆に分割するという話が突飛だろうと思い、フィジカルトレーナーの役割の重要性を怪我の観点から解説したので少し道を逸れたが、つまり、私は監督がゲームの勝利だけに集中するためにも専門外である選手のフィジカルについての責任を放棄すべきだと考えている。これにより選手は一人の監督の使い捨ての駒になる事もなく、また、精神論に依拠した過剰なトレーニングで體を無駄に酷使することもなくなる。フィジカル監督という出世した新しい職種によって體のケアに対する誤解の解消や、選手の體について選手自身が理解する契機となる事は間違いない。
そして、フィジカル監督には怪我を未然に防ぐと同時にパフォーマンスアップも責務に加わるのでただ休ませれば良いという話ではなくなる。選手たちがしっかり追い込んでフィジカルアップする機会を設けつつ、本質的な體のケアを実施するのだ。筋拘縮の蓄積という事実に向き合えばトレーニング方法も劇的に変わると確信している。ただ筋肉量を増やすためだけの筋肉トレーニングや、ただ倒れなくなるだけで體が棒のように硬くなってキレを失う体幹トレーニングがなくなり、初動負荷トレーニングや操体法のような體の理想的な動かし方、使い方にフォーカスしたトレーニングが増えるかもしれない。先日行われたW杯アジア最終予選オーストラリア対日本戦の三笘薫選手の2点目などはまさに筋拘縮の少ない筋反射を最大限に利用したキレの賜物だろう。
この写真は13年前という事なので11歳の頃のものだろうか。サッカー少年としては細身で大腿四頭筋にも発達が見られない。次に引用する記事によると彼は18歳の時、周囲の予想に反しプロの道に進まず筑波大学に進学しフィジカルアップを図ったようだ。現在は178cm73kgと公式発表にあるように少年時代の細身で華奢なイメージはすっかり影を潜め逞しいアスリートに成長した。大学時代の4年間で6kgの増量に成功しプロで通用する體を手に入れ、かつキレとスピードを活かしたドリブルを武器とするプレースタイルは変えずに出力を増す事ができたのは、理想的なアスリートの食事の徹底と、十分なケアがあったからと推察される。
私は従来から筋肉トレーニングに否定的だが、それは筋拘縮の蓄積が筋肉量の増加によるパワーアップのメリットを遥かに上回るデメリットになるからだ。実際に筋肉トレーニングで筋肉量が増えたが體全体の可動域制限が増して思うようにプレーができなくなった選手、怪我が増えて早期に引退を余儀なくされた選手を多く見てきた。しかし、もしこれを三笘選手のように體の動かし方や使い方まで意識して実践する事で筋拘縮の蓄積を低減しながら出力を上げる事ができるのなら筋肉トレーニングも使いようなのかもしれない。アスリートが行うのは運動ではなく競技という観点では、最大出力に耐えうる究極の體をつくりあげパフォーマンスを最大限に高め、かつ怪我を未然に防ぐ事ができればそれが最高のアスリートパフォーマンスメソッドになるのは間違いない。私がアスリートの體にこだわるのは、極限状態にある體を対象にした再現性の高いメソッドを創り上げる事が、世界中の多くの人たちの未病の実現に繋がると信じているからだ。筋肉トレーニングについては現時点ではまだ明確な答えは出せないが、怪我の発生率が高くなる事実は否定できないのでもう少し様子を見たいと思う。固定観念を持つ事がイノベーションには一番の敵になるので、自戒を込めて時のヒーローの話題でこの項を締めくくりたいと思う。
『MES QUE UN CLUB』とは
リーガエスパニョーラの雄FCバルセロナの本拠地カンプ・ノウにはこう記されている。日本語に訳すと「クラブ以上のクラブ」という事になる。複雑な生い立ちを背負うカタルーニャのサッカークラブが掲げる政治的メッセージ。詳細は下記に譲る。
私があえてこの鮮烈なメッセージが入った画像を記事の背景に使ったのは、ピッチで躍動する選手一人一人に人生があり、ルーツがあり、家族がある、まさに「クラブ以上の存在」だからだ。そして、選手たちの體は千差万別なのでパフォーマンスを最大化するための最適解も多岐に存在する。この無数のケーススタディの中からより多くの人たちの未病に繋がる再現性の高いメソッドを構築する事こそが当社のヴィジョンなのだから、我々の人體研究に終わりはないというメッセージを自分自身へ、そして志を立てた同志である仲間たちへ伝えたいと思う。
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