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「やりきった!」と思えた、終わりはない

今まで、何度も、色んな「終わり」を経験しているが、最後に、「やりきった!」と言って、堂々と何かを終えた、ことがない。強いて言えば、「ああ、終わったんだ。」と、なるくらいだ。

中高でいえば、部活の引退、受験、卒業。大学でいえば、コンテスト、学生団体、イベント、プロジェクトなど。その終わりの時には、必ず、何か、突っかかるものが、胸の内に残っている。

それは「あの時、ああすれば、良かったのに・・・。」という、後悔ではない。その時々で「最善だ」と思う選択をしてきた、と思う。だけど、終わった瞬間に訪れるのは、安堵感と感動などの、心地よい気持ちだけでは、ない。大体、まず、なんとも言えない気持ちになる。もしくは、自分でもよく分からないまま、涙を流す。

やってよかった。本当に、本当に、よかった。その気持ちに、嘘はない。その上で、毎回、終わってからではないと分からない「何か」が、内側から、込み上げてくるのだ。

その何かは、次への原動力やエネルギーと、なってきたのかもしれない。今までも。そして、きっと、これからも。

ただ、それを明確な「これです!」と言い切ることも、なかなか、できない。今は、自分でも、何が自分を突き動かしているのか、よく分からなくなってきているから。元々、それは、たまたま、ここにあったものが溢れた結果、だったと思う。ただ、それだけ。

だけど、いつしか、それは、私だけのものではなくなった。そして、断片的なもの、でもなくなった。いつでも、緩やかに、連続的なもの、なのだ。

だから、このような類の話をする時、私は、決まって、口を濁してしまう。だけど、その、しどろもどろで、あやふやなことを言っていることこそが、今の時点での精一杯での、「本当」なのだ。

最近、日本を離れる前だから、ひとつひとつ、区切りがつきつつある。昨日もまた1つ、東京で、大きな「終わり」を、迎えた。

私は、「終わり」たちと対峙した時、過去を悔やむことも、未来ですがろうとすることも、なるべく、したくない。 「終わり」があるからこそ、この、今の持っている感情や目の前の人を、慈しむ。

そして、また「始まり」がやって来た時、「あの時」は、きっと、大切な、お守りになる。たまに、そのお守りをぎゅっと握りしめながらも、1つひとつ、また、進んでいけたらいいな、と思う。

「終わり」の挨拶は、「さよなら」だけ、じゃない。

ここまで、ありがとうございました。
また、会えたら。

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