歎異抄の旅(14)京都の観光名所「哲学の道」、西田幾多郎、石坂浩二と『歎異抄』
哲学の道──、京都の観光名所の一つです。
どんな道なのでしょうか。
もしかして、難しい質問に答えないと通れない仕掛けがあるとか……?
それは行ってみないと分かりませんが、ここも、『歎異抄(たんにしょう)』と深い関係がある場所なのです。
京都市左京区に、山のふもとに沿って流れる小川(琵琶湖疏水・びわこそすい)があります。
この川にかかる若王子橋(にゃくおうじばし)のそばに、「哲学の道」と刻まれた石碑が建っていました。ここから銀閣(ぎんかく)までの約1・6キロメートルの散歩道が、「哲学の道」と呼ばれているのです。
『歎異抄』を非常に尊重していた哲学者
西田幾多郎が好んで歩いた道
「哲学の道」といっても、特別な仕掛けはありませんでした。
小川に沿って、樹木の間を散策する道です。道幅も狭くて、二人で横に並んで歩くことができない場所もあります。
独りで、静かに、何かを考えながら散歩するのに適した道なのでしょう。
春は桜の名所、夏はホタルが人気のようです。私が訪れたのは11月なので、哲学の道には、茶色い枯れ葉が敷き詰められていました。
名前の由来を調べてみると、哲学者・西田幾多郎(にしだきたろう)が、この道を好み、散策しながら思考を重ねたから……といわれています。
西田幾多郎は、明治3年、石川県に生まれました。
明治43年、京都帝国大学(きょうとていこくだいがく)に助教授として就任します。後に教授となり、58歳で退官するまでの約20年間を京都で過ごし、その間、『善の研究』を皮切りに、次々と論文を発表していきます。
西洋哲学を踏まえたうえで、独自の思想を築き、日本を代表する哲学者になったのです。
そんな西田幾多郎も、『歎異抄』に強く引かれていた一人でした。
西田幾多郎が、いかに『歎異抄』を重視していたかを、弟子などの記録から拾ってみましょう。
西田幾多郎は、論文にも『歎異抄』を何度も引用しています。おそらく、『歎異抄』の言葉の意味を、深く考察しながら、哲学の道を散歩していたこともあったでしょう。
そう思うと、日本の哲学に大きな影響を与えた『歎異抄』の一節を口ずさみながら、この静かな道を歩きたくなってきました。
『人生論ノート』の三木清
万巻の書から『歎異抄』を選ぶ
西田幾多郎に師事して京都帝国大学で学んだ哲学者に、三木清(みききよし)がいます。
第二次世界大戦中に、治安維持法(ちあんいじほう)の容疑者をかくまった疑いで逮捕され、獄中で死亡した不遇の哲学者です。
彼が、「幸福とは何か」「死とは何か」といった普遍的なテーマを見つめたエッセー集『人生論ノート』は、終戦後にベストセラーとなりました。昭和29年に発刊された新潮文庫版は、今も読まれており、220万部のロングセラーとなっています。
そんな三木清も、師・西田幾多郎と同じように、『歎異抄』に魅了された一人でした。次のように書き残しています。
京大で学んだ三木清も、哲学の道を歩いたことがあったに違いありません。
「万巻(まんがん)の書の中から、たった一冊を選ぶとしたら、『歎異抄』をとる」
と語ったと伝えられています。
万巻の書を読み尽くした哲学者でなければ言えない言葉です。
アニメ映画「歎異抄をひらく」
親鸞聖人の声を演じた石坂浩二さん
『歎異抄』と「哲学」の関係……と聞くと、「難しい話だろうな」という思いがわいてくるかもしれません。
そういう人には、俳優の石坂浩二(いしざかこうじ)さんの言葉を紹介したいと思います。
石坂浩二さんは、令和元年に公開されたアニメ映画『歎異抄をひらく』で、親鸞聖人の声を演じました。
映画公開時に行われたインタビューで、石坂浩二さんは、
「『歎異抄』は、決して、宗教書ではなく、日本で最初に綴られた哲学書だと思っています」
と語っています。
その理由を、続けて聞いてみましょう。
『歎異抄』は、まるでクイズの問題集みたいな本です。人はなぜ生きるのか? 人間とは? そんな問いかけや、謎の言葉が、たくさんある。そこを、小説を読むように通り過ぎると、「読んだ」という記憶しか残らない。そうではなく、今の自分に引きあてて、考えてみるんです。
すると、心が非常に豊かになります。「豊か」といっても、いろんなものが入るという意味ではなく、入れ物が大きくなるのです。そんなきっかけになる言葉が、『歎異抄』には、たくさんあります。(中略)
『歎異抄』は、「こうしなさい」と押しつけるのではなく、「考えろ、考えろ」と、絶えず言っている。そこが、いちばんの魅力だと思うんですよ。だから、『歎異抄』を読むと、「自分というものを、探ってみよう!」という探検家になるのです。
『歎異抄』の中で、最も有名なのは、「善人なおもって往生(おうじょう)を遂(と)ぐ、いわんや悪人をや」ですね。「悪人こそ救われる」と聞くと、「えっ!」と思う。矛盾を感じます。
「悪いやつほど救われるのか。じゃ、どんどん悪いことをしよう」と思う人もいるかもしれない。しかし、そんなはずはありません。みんな、気がつくはずです。
単に、善人、悪人という問題ではなく、これを通して、自分とは何かを見つめる言葉だと思うのです。
(中略)
僕は、高校生の時に、『歎異抄』を読んで、親鸞聖人を知りました。日本にも、こんな人がいたのか、と思いました。彼の歩んだ道、書いた本は、「なぜ生きる」の問いかけで貫かれています。だから僕は、親鸞聖人は、日本で最初の哲学者ではないかと思っています。
石坂さんは、『歎異抄』を「クイズの問題集みたいな本」と言っています。とても分かりやすい例えですね。
「人は、なぜ生きるのか?」というクイズは、難問中の難問といっていいでしょう。
一生は、あっという間に過ぎ去ってしまいます。自分の問題として、この問いに向き合うことが、人生を輝かせることにつながるのです。