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歎異抄の旅(3)比叡山への道のり〜宮本武蔵より強かった、松若丸の覚悟

 比叡山(ひえいざん)へ登りましょう。
 京都府と滋賀県の境にそびえる標高847メートルの山です。

 1200年以上も前に、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)が仏道修行(ぶつどうしゅぎょう)のために山を開き、延暦寺(えんりゃくじ)を建立(こんりゅう)したのです。
 延暦寺が発行する「比叡山めぐり」パンフレットには、次のように書かれています。
「多くの名僧がここで修行して宗祖となり、比叡山は『仏教の総合大学』『日本仏教の母山』と呼ばれるようになりました」
 今でこそ、世界文化遺産に登録され、観光客でにぎわっていますが、かつては、仏教を学ぶ最高学府(大学)であり、全国から俊才が集う場所だったのです。

ケーブル延暦寺駅から琵琶湖を望む

 松若丸(まつわかまる・親鸞聖人・しんらんしょうにん)は、4歳の時に父を、8歳の時に母を亡くしました。相次ぐ父母の死に接し、
「次に死ぬのは自分の番だ」
と、強く無常を感じたのです。
 自分の「死」を見つめると、
「この世が終わったら、どこへ旅立つのだろう」
「死後(後生・ごしょう)は、あるのか、ないのか」
など、次々と疑問がわいてきます。
 このような、
「死んだらどうなるか分からない心」
を、仏教では「後生暗い心」といいます。
「後生暗い心」を解決して、この世から永遠の幸福になることが仏教の目的なのです。

宮本武蔵ゆかりの、一乗寺下り松

「死んだらどうなるか」の大問題を、仏教では、
「後生の一大事」
ともいわれます。
 松若丸(親鸞聖人)は、後生の一大事を解決するために、9歳で出家を決意し、比叡山延暦寺の僧侶になりました。
 青蓮院(しょうれんいん)で出家した松若丸(親鸞聖人)は、どんなルートで比叡山へ向かったのでしょうか。
 当時は、比叡山のふもとにそびえる「一乗寺(いちじょうじ)下(さが)り松(まつ)」を目印にして進み、雲母坂(きららざか)から山頂を目指すのが最短コースでした。

 では、まず青蓮院から「一乗寺下り松」を目指しましょう。
 京都市内から京阪電車で北へ向かいます。
 終点の出町柳駅(でまちやなぎえき)で降りると、比叡の山並みが目の前に迫ってきました。
 ここから叡山電車に乗り換え、一乗寺駅へ。
 ホームには、なんと、
「宮本武蔵(みやもとむさし)・吉岡一門 決闘の地(一乗寺下り松)…当駅下車」
と大書されているではありませんか。

叡山電車・一乗寺駅

「一乗寺下り松」……どこかで聞いた名だと思っていたら、吉川英治(よしかわえいじ)の小説『宮本武蔵』で有名な場所だったのです。
 武者修行に歩く武蔵は、ある日、京都の吉岡道場を訪れ、試合を申し込みます。
 門人たちは、
「この田舎者が、何を言うか」
と、あざ笑います。
 しかし、道場の当主・吉岡清十郎(よしおかせいじゅうろう)までが、武蔵に敗れたのです。伝統ある吉岡道場の名誉は、地に落ちてしまいました。
 憤る吉岡一門は、一乗寺下り松へ武蔵を呼び出します。果たし合いです。
「試合」なら、一対一の戦いなのに、吉岡側は百人近くの武者を集めて待ち伏せをしています。下り松の樹上には、鉄砲を構えた男まで隠していました。
 そんな中、武蔵は、下り松へ向かって、一人で斬り込みます。
 吉川英治は、次のように書いています。

 親鸞や、叡山(えいざん)の大衆(だいしゅ)が都へ往来(ゆきき)した昔から──何百年という間をこの辻に根を張って来た下り松は今、思いがけない人間の生血を土中に吸って喊呼(かんこ)して歓(よろこ)ぶのか、啾々(しゅうしゅう)と憂いて樹心が哭(な)くのか、その巨幹を梢の先まで戦慄させ、煙のような霧風(むふう)を呼ぶたびに、傘下(さんか)の剣と人影へ、冷たい雫(しずく)をばらばらと降らせた。

(『宮本武蔵』より)

 この小説からも、親鸞聖人が比叡山と都を往復される時には、「一乗寺下り松」の前を通っておられたことがうかがえます。

 きっと、樹齢数百年もの大木であり、遠くからも見えるに違いないと思って、一乗寺駅から山の方向へ歩き始めました。
 すると間もなく、道路が交差するあたりに、
「宮本 吉岡 決闘之地」
と刻まれた石碑を発見しました。
 その横に、高さ3〜4メートルほどの松があり、「一乗寺下り松」と記されているではありませんか。小説のイメージが強すぎたので、「えっ、これが……」と言ってしまいましたが、間違いありません。今の松は、4代めだそうです。

一乗寺下り松と、「宮本 吉岡 決闘之地」の石碑

仏教の目的は、後生の一大事の解決

 800年前、念珠(ねんじゅ)を手に、この松の前を通って比叡山へ向った9歳の松若丸(親鸞聖人)。
 400年前、剣を握って、この松をめがけて斬り込み、吉岡一門と戦った宮本武蔵。
 一般的には、宮本武蔵のほうが、大きな覚悟が必要だったように思えるでしょう。百人近くの敵と、一人で戦ったのですから。
 しかし、後生の一大事の解決のために仏道修行へ向かう松若丸(親鸞聖人)の覚悟は、決して武蔵に劣りません。むしろ比較にならないほど、大きかったのです。
 親鸞聖人の尊敬されている龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)は、「後生の一大事」の解決を求めることは、大宇宙を持ち上げるよりも重いとおっしゃっています。そんな大問題を解決し、不滅の幸福になる道を説かれたのが仏法なのです。その仏法を聞く覚悟を、親鸞聖人は、こう教えられています。

たとい大千世界(だいせんせかい)に
みてらん火をもすぎゆきて
仏(ほとけ)の御名(みな)を聞く人は
ながく不退(ふたい)にかなうなり

(浄土和讃・じょうどわさん)

(意訳)
たとえ、この世が火の海になっても、後生の一大事の解決のために、仏法は聞かなければなりません。聞けば必ず、絶対の幸福になれるのです。

『徒然草』のアドバイス

 仏教の目的は、後生の一大事の解決です。
 こう言うと、
「なぜ、若い時から『死』について考える必要があるのか」
と疑問を持つ人もあるでしょう。
 兼好法師(けんこうほうし)は、『徒然草(つれづれぐさ)』の中で、次のように優しくアドバイスしています。

 自然界には、春の次に夏、夏の次に秋、秋の次に冬という、決まった順序がありますから、やがて来る暑さや寒さの備えをすることができます。
 ところが、人間界の「死」は、順番を守りません。しかも「死」は、人間の予想どおりに、必ず前から来るとは限らないのです。全く思ってもいないうちに、自分の後ろから忍び寄ってきます。
 人は誰でも、「自分も、いつかは死ぬ」と頭では分かっていながら、「そんな急に死ぬはずがない」と信じています。ところが、そんな淡い期待は簡単に裏切られ、ある日、突然、死に直面するのです。

(『徒然草』第一五五段)
イラスト・黒澤葵

「無常の殺鬼」に敗れた平清盛

 また、『平家物語』には、「死」のことを、
「無常(むじょう)の殺鬼(さっき)」
と書かれています。
「殺鬼」とは、すべての人を殺す恐ろしい鬼(おに)のことです。
 平清盛(たいらのきよもり)は、都を守る武士の立場から、とんとん拍子に出世して、この世の、地位も、名誉も、財産も、すべて手に入れたような男でした。
『平家物語』には、清盛が病に倒れ、亡くなっていく姿が、次のように描かれています。

 閏(うるう)二月四日、清盛は、ついに、悶(もだ)え苦しみながら死んでいきました。六十四歳でした。
 いざという時には、命に代えても、清盛を守ると忠誠を誓う軍勢が、数万人も屋敷の周りに待機していました。しかし、「死」という目に見えない敵、「無常の殺鬼」という強敵を、追い返すことはできなかったのです。
 二度と帰ってくることのない死出(しで)の山、三塗(さんず)の川を越えて、冥土(めいど)の旅に、清盛は、ただ一人で向かったのでした。生前に、体と口と心でつくった罪が、獄卒(ごくそつ)となって迎えに来るのですから、まことに哀れに思われてなりません。        

(『平家物語』巻第六 入道死去)

 どんなに地位、名誉、財産を集めても、「後生の一大事」の解決には役立ちません。
 平清盛は、自分の周りを数万人の軍勢で守らせましたが、そんなもので、迫り来る「無常の殺鬼」を撃退することはできませんでした。
 遅かれ、早かれ、いつか必ず襲ってくるのが「無常の殺鬼」です。
「後生の一大事」の解決の道は、仏教にしかないのです。だからこそ、親鸞聖人は、わずか9歳で、親族と別れ、仏教の最高学府であった比叡山延暦寺を目指されたのでした。

音羽川の上流に、比叡への登山口

 一乗寺下り松から、住宅街を抜けて雲母坂へ向かいます。
 幅4〜5メートルほどの川に出合いました。欄干(らんかん)には「音羽川(おとわがわ)」と書かれています。

 平安時代から、和歌に詠まれた風情ある川であり、この流域に「音羽(おとわ)の滝」があったはずです。しかし、今は、水路をコンクリートで固め、上流には砂防ダムが建設されています。台風で土石流が発生し、被害が多かったためです。
 音羽川の上流に、比叡山への登山口「雲母坂」があるはずです。坂道の土砂には雲母が混じっていて、キラキラ光るので「雲母坂」と呼ばれ、「きらら坂」とも書くようです。

 取材に訪れたのは11月末。音羽川沿いの道には、落ち葉が敷き詰められていました。行き交う人もありません。

音羽川沿いの道

 あまりにも寂しい道なので、
「この方向でいいのかな……」と不安を感じた頃に、
「登山口 きらら坂」
の表示が現れました。

 砂防ダムの手前に木造の橋があります。その名も「きらら橋」。ようやく目的地に着いたようです。

きらら橋。右手が砂防ダム

 橋を渡ると、ダムの壁の前に、
「親鸞聖人御旧跡 きらら坂」
と刻んだ石碑がありました。「こんな所に、親鸞聖人のお名前が……」と驚かずにおれません。

「親鸞聖人御旧跡 きらら坂」の石碑

 おそらく、
「親鸞聖人が、この山でご苦労なされたからこそ、私は仏教を知ることができたのです」
と、ご恩を感じる人たちが建てたに違いありません。800年後の今日まで、脈々と続いている教えの力に、心を打たれます。

 石碑の横には、車が通れるくらいの広い道が、山へ向かっています。

石碑は、きらら坂へ続く登山口にある

 安心して歩き始めると、
「比叡山登山口」
の表示が、森の中へ入れ、と指示しています。

「まさか?」
 どう見ても、道らしき道がありません。矢印に従って森へ入ると、人がやっと通れる幅だけ、土を踏みしめた跡があります。台風の被害でしょうか、あちこちの木が、無残に裂けて倒れています。山道を登りながら、
「雲母がキラキラと光っているはずだ」
と、足下を見つめても、むき出しになった木の根っこと、ゴツゴツ砕けた岩石ばかり。キラキラどころか、落ち葉で滑って転びそうです。

 こんなに険しい坂道とは知りませんでした。登山の装備をしてこなかったので断念し、引き返すことにしました。
 親鸞聖人は、9歳から29歳までの20年間、比叡山で修行されました。この険しい坂道を、何度も往復されたに違いありません。
 雲母坂の入り口に、
「親鸞聖人御旧跡」
と石碑を建てた人たちの気持ちが、より深く伝わってくるようでした。

ケーブルカー、ロープウェイで山頂へ

 徒歩が無理なら、ケーブルカーとロープウェイを利用して山頂へ登ることができます。
 一乗寺駅まで引き返し、再び叡山電車に乗り、終点の八瀬比叡山口駅(やせひえいざんぐちえき)へ。

八瀬比叡山口駅

 11月下旬の紅葉シーズンでした。平日なのに、観光客で大混雑しています。
 これは大誤算。
 ケーブル八瀬駅には、切符を買うための長い列。飛び交う言葉は、英語、中国語、韓国語……。さすが、世界文化遺産に登録されているだけあって、海外から訪れる人が多いのです。
 ケーブルカーは急斜面を駆け登ります。9分後に比叡の中腹に到着。

ケーブルカー

 ここでロープウェイに乗り換えます。空中に浮くガラス張りの箱。眺めはとてもよく、赤や黄色に色づく樹木の上を、ゆっくり飛んでいきます。外国人観光客から「オーッ」という声がもれ、スマートフォンで撮影する音が……。そうか、「オーッ」は各国共通なのだ、と納得。

ロープウェイ

 比叡山頂駅に着くと、待合室には大きなストーブが焚かれていました。紅葉は美しくても、山の上は、実に寒いのです。
 ロープウェイから降りても、さらにバス停まで冷たい風に吹かれながら10分ほど歩きます。
 シャトルバスに乗って、「延暦寺バスセンター」で下車。ようやく比叡山延暦寺の中心地に到着しました。

延暦寺バスセンター

 京都の青蓮院からここまで、5回も乗り換えました。電車やバスを使っても、簡単に来ることができる場所ではありません。

「延暦寺」は、どこに?

 延暦寺バスセンターは、高速道路のサービスエリアと同じ雰囲気です。広い駐車場があり、バスや車が多くとまっています。
 大きな食堂も土産物店も、平日なのに、観光客で大混雑。

根本中堂へ向かう団体観光客

 ここから延暦寺の境内へ入るには、受付で「巡拝料(じゅんぱいりょう)」を払う必要があります。
 受付の女性に聞きました。
「延暦寺へ行きたいのですが、どこにありますか」
 すると、意外な返事。
「延暦寺は、ないんです」
「えっ! ない? 学校の教科書にも、観光案内にも『延暦寺』と書いてありますよ」
「『延暦寺』という名の建物はありません。比叡山には、100以上のお堂があります。これらを全部まとめて『比叡山延暦寺』というのです。総称なんです」

 なるほど! ここが奈良の東大寺(とうだいじ)や興福寺(こうふくじ)と違うところです。

「今日は、親鸞聖人ゆかりの寺へ行きたいのです。どこにありますか」
「親鸞聖人なら、無動寺谷(むどうじだに)の大乗院(だいじょういん)ですね。でも、せっかく行っても、誰もいませんよ」
「なぜ?」
「無住寺院になっていますから」
「住職がいない?」
「そうなんです。千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)を行う人が大乗院の住職になりますが、今は、誰もやっていませんからね」

 千日回峰行は、比叡山の、最も過酷(かこく)な修行です。行者(ぎょうじゃ)が歩く距離は地球一周とほぼ同じなのです。
 この難行を達成した僧が現れるとマスコミが大きく報道します。蓮華(れんげ)の葉の形をした笠をかぶり、白い死に装束(しょうぞく)で、ひたすら比叡の峰を歩く姿をテレビや雑誌で見た人も多いのではないでしょうか。
 理由にかかわらず、途中で行を続けられなくなったら自害しなければなりません。そのため、千日回峰行の行者は、短剣と埋葬料10万円を常時携帯しています。それほど厳しい修行ですから、達成した僧は、戦後、十数人しかいないのです。
 親鸞聖人は「大曼行(だいまんぎょう)の難行」を成し遂げられたと伝えられています。今日の「千日回峰行」とは比較にならないほど過酷な難行だったのです。

 受付の女性に言いました。
「無住寺院でもかまいません。若き日の親鸞聖人が、厳しい修行に打ち込まれた大乗院を、見てみたいのです」
「では、ここから中へ入ると根本中堂(こんぽんちゅうどう)があります。比叡山の総本堂にあたる建物です。そこから坂道をずっと下ってください。三十分ほどかかりますよ」

樹上だけでなく、地表も彩る紅葉

親鸞聖人の旧跡 無動寺谷の大乗院へ

 根本中堂から坂道を下ると、ケーブル延暦寺駅が見えてきます。
「長さも、眺めも、日本一。坂本ケーブルで比叡山へ」
と宣伝しているように、滋賀県側から山へ登るケーブルカーです。
 駅舎の屋上から、美しい琵琶湖を一望することができます。
 観光客が多いのは、ここまでです。
 駅を通り過ぎると「無動寺参道(むどうじさんどう)」の石碑が現れ、雰囲気が変わります。

 道は整備されていますが、ヘアピンカーブのように曲がりくねっています。しかも、左側は深い崖。崩れかけた道もあるので、人が誤って落ちないようにロープが張ってありました。
 参道の両側には、樹齢数百年かと思われる大木がそびえています。空を見上げても、樹木のトンネルの中にいるようです。
 800年前の親鸞聖人の時代の空気も、こうだったのではなかろうか……と、たたずんでいると、チロチロと高音の楽器を演奏しているような音が聞こえてきました。山肌の岩から、水がわき出ているのです。

 無動寺参道の石碑が現れると、別世界のような静かな空間へ入っていきます

 さらに坂道を下っていくと、左手に明王堂(みょうおうどう)が見えてきました。千日回峰行の行者が、700日めを終えると、9日間、断食、断水、不眠、不臥(ふが)の命懸けの修行に入る場所です。

 そんな深刻な場所とは思えないほど、明王堂の境内(けいだい)のモミジは、真っ赤に色づいていました。眼下には、琵琶湖と滋賀県大津の市街地を見渡すことができて、とても景色のいいところです。
 明王堂から急な斜面を下りた平地に建っているのが大乗院です。境内には、
「親鸞聖人御修行旧跡(しんらんしょうにんごしゅぎょうきゅうせき)」
と刻まれた、大きな石碑がありました。
 確かにここは、親鸞聖人がご苦労を重ねられた地なのです。

 無住寺院ではインタビューもできないので、バスセンターへ戻ることにしました。帰りは急な登り坂です。息切れがしそうな所に、ベンチが置いてあります。参詣者への温かい配慮なのでしょう。
 途中で、参道の落ち葉を掃いている若い僧に会いました。黒い作務衣(さむえ)を着ています。
「こんにちは、掃除も修行の一つですか」
「はい、日課ですから」
 笑顔で答えてくれる二十代の青年です。
「どうして、比叡山へ修行に入ったのですか」
「僕は、在家ですから、もともと寺には関係ありません。会社で、人間関係が嫌になり、行き詰まってしまいました。そんな時、仏教を聞いたら何かあるんじゃないかと思って、ここへ来たのです」
「そうですか。この坂の下にある大乗院へ入られた親鸞聖人は、『死んだらどうなるか』の大問題に驚いて僧侶になられました。そういうことは、考えたりしませんか」
「『後生の一大事』の解決を目指して修行する人もあるでしょうが、今は、どうですかね。周りには、いませんよ。人それぞれではないでしょうか」
「あなたのような若い人が、ほかにも、この比叡山へ修行僧として入ってきますか」
「寺の跡継ぎが修行に来ることがありますが、その数も減ってきましたね。だんだん寂しくなってきました」

 何をきっかけに仏教に触れるようになるかは、人それぞれです。
 しかし、釈迦(しゃか)が仏教を説かれた目的は変わりません。
 親鸞聖人の晩年に、こんなことがあったと、『歎異抄(たんにしょう)』に記されています。
 何人もの人たちが、関東から京都へ、命懸けで、親鸞聖人を訪ねてきたのです。
 彼らを迎えられた親鸞聖人は、まず、こうおっしゃったのです。

(意訳)
あなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から身命を顧(かえり)みず、この親鸞を訪ねられたお気持ちは、極楽(ごくらく)に生まれる道ただ一つ、問(と)い糺(ただ)すがためであろう。

(原文)
おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽(おうじょうごくらく)の道を問い聞かんがためなり

 (『歎異抄』第二章)

 仏教を聞き求める目的は、後生の一大事を解決して、極楽へ生まれる身に救われること以外にはないのです。
 この目的に向かって、親鸞聖人は、どのように進んでいかれたのか、引き続き、比叡山の旧跡を巡っていきます。

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