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NICOTINE & GRAVY / BECK

YesとNoとSorryとThank youしか言えない程度の英語力で、3年学んだスペイン語そっちのけで、「よし、イギリスに行こう」と決意して、3週間後にはヒースロー空港にいた。今となってはあの行動力はなんだったんだろうかと思うし、後にも先にもあのアグレッシブさはない。滞在中はぜんぜんアグレッシブではなかったのだけど。はじめての海外で、ヨーロッパで、1年滞在。1年滞在のために学校からの証明書と、銀行の英語版残高証明を携えて行ったのにビザが3ヶ月しかおりなかった(まわりの留学生はだいたい6ヶ月おりてたのに)のも、今となってはよい思い出です。不法滞在の相が顔に出ていたのでしょうか。

羊がうろうろしている丘や、白鳥が優雅に羽繕いしている小川や、9時には閉まるパブ(あの、イギリスのパブでエレファントなんちゃらって名前が多いのは何故なんですか?象のように飲め、ということ?)や、現役引退後ロンドンから移り住むそこそこ高給のシニアでいっぱいの、ロンドンから各駅40分程度の田舎町のまんなかにその大学はあり、こじんまりとしたスクエアの中庭で信じられないほど高価なタバコをフィルターギリギリまで吸ったり、カンティーンの塩味とグレイビーソースの味しかしない料理で腹を満たしたり、フラップジャックというシリアルを水飴で固めてチョコレートかけたみたいなヴェリー・イングリッシュなジャンクフード(多分イギリス人はそこそこ体に良いと思って食べている)とダイエット・コークで昼を済ませたり、全然喋れないし聴けないのに下手に書けちゃうし読めちゃうので最高レベルのクラス(色の名前で分けられていたのだけど、わたしの所属はクリムゾン、深紅だった)に入れられたり、なんか川でバーベキューしたり、同じクラスのスウェーデン人集団とブライトンで飲み明かして流血騒ぎがあったり、現地の中学生愚連隊に背後からペットボトル投げつけられて、仕返しに吸い差しのタバコ投げ返したり、いろんなこと思い出してきたんでこのくらいにして本題に移りますけど、最初のホストファミリーはファミリーでなくて、カップルだったんですよね。毎朝彼女の方がシャワーのときに流す音楽が当時流行ってたBASEMENT JAXXの"RED ALERT"で、毎朝起こされて、あの印象的なリフを聞くと、いまだにシャワーの音が背後に聞こえてくるんですよね。当時はそう、ビッグビート真っ盛りでFAT BOY SLIMとかテレビで毎日流れてましたね。ライヒア、ライナウ!ライヒア、ライナウ!と。あとMACY GRAYがデビューした直後だったはずで当時テレビで”I TRY”を唄う姿みてすげえなこのひと、と衝撃を受けたのを覚えています。食事つきの契約なのに、毎日冷凍食品で、カップルだからこちとら気も使うし、あんまりコミュニケーションも取れず、距離をおいて付き合ってたら、ある日2人とも不在(多分旅行にでもいってたはず)のタイミングがあって、おそらく近所の友人にわたしのケアを頼んだのでしょう、学校から帰るとキッチンにその友人宛の置き手紙があって、そこに”it”はマイクロウェーブ・ミールを毎晩与えるだけでよい、と書いてあって、わざわざitがダブル・クォーテーションマークで囲んであって、ああ、もうこのふたりはわたしをハムスターか鈴虫程度にしか見てないのか、もう、きついわ、異国でit呼ばわりか、と思って、学校には何も言わずに引越しを申し出て、次に住んだのがなんかおかしなくらい料理が得意で女たらしな中年ドイツ男の一人暮らしの家で。ところでこれが本題なんでしたっけ。フィンランド女性のレアニとしばらくステイメイトだったが、程なくして国に帰ってしまい、その後にきたのがUAE男性モハメッド。その期はUAEから軍隊所属の集団が来ていて、ほとんどの男がモハメッドという名前でかぶっていて、それぞれニックネームで呼び合っていて、なるほど、本名は神のため、渾名は友のため、みたいなことなのか、アッラーは偉大だ、と思っていたある日、俺はTankだ。Tankと呼んでくれ。といわれて、なかなか正直いきなり真顔でタンク!とは呼びにくいなあ、と思ったのでした。ある日パスポートを見せられ、明らかに年上なのに、生年月日が全然若くて、えええ、とのけぞったら、ははは、真に受けるなよ、これは偽物だ、と告白されたものだ。イスラエル人の学生も確かひとりだけその期にはいて、たまたまカンティーンで居合わせたときに、わたしに向かって”あいつらは泥棒だ”と無茶苦茶ディスっていたのを思いだす。イギリスにいる間にペーパーバックを1冊読もう、と何冊も何冊も学校の近くの文具店で買っては挫折していたのだが、やっと読み切ったのはアレックス・ガーランドの『ザ・ビーチ』(ダニー・ボイルの映画は正直ひとつも好きではない。なんだか合わない。『トレインスポッティング』も『スラムドッグ・ミリオネア』も)という、すぐのちにレオナルド・ディカプリオ(史上最高のディカプリオは森のくまさんとくんずほぐれつの死闘を見せる『レヴェナント』)主演で映画になったタイのビーチを舞台にしたスリラーで、今思い返してみても、何の感想も浮かばないのが残念なところ。


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きっとたまたま語彙がぴったりきてて、なんとなく読ませるプロットだっただけなのかもしれない。映画も観てないし。在英時代に観た映画は学校のプログラムの一環で観た『プライベート・ライアン』だけかもしれない。序盤の激しい10分しか覚えてないけど。その当時、1999年、わたしはそれほど映画を観ていなくて、音楽愛のほうが強かったので、たまに週末に行くロンドンのピカデリー・サーカスのHMVとか、もう少し頻繁に週末に行ったブライトンの中古レコード屋とかで、あのもはや絶滅した薄いジュエルケースに入ったepをこまめにチェックしては、スーパー・ファーリー・アニマルズとか、フレイミング・リップスとか、マニック・ストリート・プリーチャーズとか、ブラーとかパルプとかコーナーショップとか聴いてたものです。

当時埼玉とイギリスで遠距離だった女性と公衆電話で別れたあと、帰り道のちょっとした広場みたいなところで野良猫とすこし戯れ、少しだけ小高い丘の上にあるステイ先に帰るとモハメッドが、もとい、タンクが「ヘイ、これ、欲しがってたよな、買ってきたよ、ハッピー・バースデー」とCDを手渡してくれて、え??なんで??欲しかったけど??なんで??そんなこと話したっけ??誕生日知ってたっけ??とおもったのだけど、ああ、わたしはもう、彼にとって同胞(はらから)なのだ、神の名の下の兄弟(ブラザー)なのだ、わたしはそんな熱い想いはなかったけど、もうそういう関係なのだ、すごいなアラブ社会は、熱波が桁違いだな、と思ったのでした。

今調べたらそのCDのリリース日は1999年11月23日で、わたしの誕生日の16日後でした。あれ、これ誕生日プレゼントじゃなかったのかな。勝手に誕生日プレゼントもらった想い出ににわたしが加工してしまったのかな。あの記憶に残っている英国生活のどれくらいが真実なんだろか、と。1999年12月27日、急遽帰国日を早めて年内帰国、実家でゆく年くる年をぼおんやり観ながら「2000年問題」っていって何にも起きなかったな、もう3ヶ月くらいいればよかったな、と思って、寝床に向かったのを覚えているような、いないような。

いやー、音楽と本と映画と、あれやこれや、愛や恋や、ほんとにすばらしいですよね。それでは聴いてください、BECK『MIDNIGHT VULTURES』より、"NICOTINE & GRAVY"をライブ・バージョンで。お相手はきむらでした。 はい、いいえ、すみません、ありがとう。

ぼくらは狂いはじめたっぽい
彼女の左目がけだるい
彼女はすごいイスラエル人っぽい
ニコチンと肉汁 吸いたい

わたしは今夜、死にたくない
(拙訳)


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