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SUPERSTITION / STEVIE WONDER


なにか大きな決断を迫られたり、突然のアイデンティティ・クライシスに襲われたり、脳みそが瞬間フリーズドライになるような問題に直面したり、そういう危機的なタイミングで必ず流れてくる曲がある。それは頭の中で観念的に"危機のテーマ"が再生されるのではない。それは、街角で、カフェのBGMで、エレベーターで、そのときわたしがたまたま居合わせた場所で、本当にリアルなスピーカーから流れるのだ。
といえば、あなたはそれはよくある強迫観念のドラマティックな演出、迷信に過ぎないと笑うだろうか。笑いたいものは笑えばいいし、世の中そんなに笑えることなどないのだから、わたしはほんのちょっとあなたの幸せに貢献している、とも言えるかもしれない。笑顔で向き合ってもらえるなら、わたしだってほんのちょっと幸せかもしれない。ただ、音楽に魔法がかかることがあるのをあなたは知らないだろうし、これからも知り得るチャンスがあるかどうか。水面の鯉のように口をパクパクさせて、マーケティングで生み出されたエサでブクブク肥えるだけかもしれない。なぜならあなたには哲学がないから。

最初の体験は再生ではなく演奏だった。生演奏だった。それは都内のある寺の境内でコンサートをする企画で、たまたま長野のバブリーなリゾート地で企画していたジャズフェスのついでに、招聘したミュージシャンを水平展開のうえ、コスパの良い興行になるはずだったのだが、直前に別のプロモーターが開催したフェスで近隣住民の騒音クレームが大荒れに荒れて、わたしたちの企画を遂行するためには近隣の家一軒一軒を訪ねてお詫び行脚をしなければならなくなり、わたしと、わたしと同世代の別プロモーターのディレクターがタッグを組み、アルバイトスタッフも引き連れて、一日百軒くらいの家のドアを叩いて、お詫びツアーを敢行して、末に、寺コンサート当日。

わたしは誰よりも早い朝、現場の寺に入り、トランシーバーをつけて、数十人のスタッフが一斉に稼働しはじめて、凍ってしまった。何をやればいいのか、自分の役割が何なのか、何が次に何になるのか、何の何が何の何なのか、真っ白な陶磁器を眺めては飽きもせずかといって触れもせずみたいな風情で立ち尽くしてしまったのです。トランシーバーから漏れてくる指示や報告が左耳に注がれる間、わたしはぼんやりステージの方向をを見やることしかできなかった。海千山千のプロに囲まれ、なんとなく生ぬるく学生時代を過ごしてきて、何のイロハも知らんまま就職して、あんなに自分の無力を感じたことはなかった。

わたしが凍っていようとコンサートは淡々と粛々と進行し、いよいよ終盤、静かめのアンコールに応え、本日演奏した4組のアーティストが日暮れた寺の境内の仮設ステージに全員集合した。4人のヴォーカリストが変わりばんこに歌う名曲のカバーに鳥肌がたったのをとても鮮明に覚えている。

あれからもう20年。映画会社に勤めていた東銀座の三原橋交差点を通り過ぎたアドトラックから、人生迷い込んだ四国の山奥のイタリアンレストランのBGMで、折々のクライシスで、その曲は流れるようになった。

いやー、音楽と本と映画と、あれやこれや、愛や恋や、ほんとにすばらしいですよね。それでは聴いてください、STEVIE WONDERで、"SUPERSTITION(迷信)"、ライブバージョンで。お相手はきむらでした。

そろそろこの歌も終わりにしましょうか。迷信と哲学について。


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