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聖者の行進

「シャキソフォーン、ソニー・ロリンズ!」

彼女はあの年代特有の、しゃくり上げ気味でアとエの中間母音とrの巻き舌に意識過剰な日本語米語(かつてカメラはキャメラだった)でコールしたあと、その夜随一のスウィングのリズムに沸くステージで彼のプレイをスキャットで口真似た。バンドはドラム、ベース、ギター、ピアノの4ピース。最小の営業パッケージであり、ヴァイオリンもヴィブラフォンもどこにも見当たらないが、カラオケが決まったテンポでオーガニックなシンコペーションを駆使しながら演奏する。すべてのオケのソロを、彼女が彼女の声だけでスキャットでなぞっていく。

一方客席をぐるりと見やれば日本古来の盆踊りのリズム。手拍子をする程度でまったくスウィングしない。ソニー・ロリンズが誰かもわからない、時折子供たちのグズる声が場を白けさせる、全世代が入り混じるオーディエンス。ジャズのマナーは上滑りする。企業の福利厚生イベント営業では、いつかのライブハウスの熱狂は望むべくもない。フィナーレなのに誰も立ち上がらない。見渡せど見渡せどファンなどいない。サイズの合っていないスーツ姿の重役が揃って座る前方のVIP席をドリーに載ったカメラが平行に舐め、ステージの巨大スクリーンにパノラミックに映しだす。アリーナ後方では空席がパラパラと目立つ。舞台裏のマネージャーも苦言に満たないピアニッシモな表現と音量でぼやくのみだ。「これじゃジュリーさんだったらドタキャンするね」

10代で鮮やかなデビューを飾ってやがて50年余り、ラメは控えめながら鮮血のようなクリムゾンレッドのワンピースに身を包み、自分の年齢も嫌味にならない湯加減で自虐ジョークにしつつ、アーティストであるという自負と、人気稼業であるという諦念の間で、しかしまだまだ現役、つい先月にリリースした全曲新録音のニューアルバムのアピールもほどほどに、10~20代の頃に歌って一斉を風靡した往年のヒット曲で無難に幕を開けながら、彼女の歌うたい人生で最大のヒット曲となってしまった(彼女のようなアーティストにとって、ヒット曲とは消えない痣のようなものだ)、敗戦の悲劇を歌うしみったれたフォークソングも中盤にきっちり抑え、いよいよのラスト。正味45分。あっという間の。子供が退屈で泣き出さない、まったく絶妙な尺。ディズニーのショーやマーベルの映画のような、絶妙な。

わたしの口から酸いも甘いもと言ってしまえば軽薄に過ぎるだろう。彼女は戦後の賑やかで猥雑な芸能界を生き抜き、若くもなく渋くもない中盤のジレンマをくぐり抜けて今、このステージに立って計五本のムービングライトを浴びている。時は閃光のように一瞬彼女を照らしてすぐに消えた。ゆったりとした余裕のあるMCで少しだけユーモアを挟みながら、すっかり歌い飽きてしまったヒット曲の紹介をする。「息の続く限り、声の続く限り、歌い続けたい」彼女はこの数年すべてのステージで言い続けたフレーズのあとに、満を持して最後の曲の紹介に移る。

持ち前の伸びやかなハイトーンがすべての楽器に先駆けて場内をこだまする。泣く子は黙らない。さっきまで爪弾かれていたフォークギターも泣きやんで、舞台下手でギタースタンドに収まりながらも、その後方で鳴り出したウッドベースの低音にその弦をほんの少しだけ震わせているのが見えるようだ。

開演直後には、途中で席を立ってタバコでも吸いに行こうと思っていたのだった。まだ子どもが泣いている。往年の人気歌手のヒットパレードに割く時間などわたしには1分もないと思っていた。しかし実際は客電が上がり、オーディエンスが出口に向かって流れ出したそのときも、わたしはPA席のうしろ、ぐらついたパイプ椅子に腰をかけたまま、虚空を漂いライトに照らされていた、今は照らされていない薄いスモークの残りを目で追っていた。文字通り、金縛りのように動けなかったのだ。

ファンがいなくとも、しみったれたフォークソングでも、りんご箱の上の演歌ショーでも、デパートの屋上のビアガーデンの余興でも、地方の寂れたリゾートホテルの宴会場でも、聖者が絶滅して久しいこの星のどこかで、ラスベガスで、アカプルコで、ニースで、上海で、きっと今夜も無数のライブショーが行われていて、往年のヒット曲に呪われた往年のビッグスターが、自身の生身の身体がかつて放っていた輝度をちょうどよく補うようなきらびやかな彩度の衣装に身を纏い、喉を震わせ、自らの人生を、思うようにいかないことがほとんどだった人生を、ほんの少しの憐れみ混じりで、生涯をかけて憧れ続けたジャズに乗せて謳歌している。半世紀を経て、あらゆるしがらみもそのままに、けれど遂に、スウィングしなけりゃ意味がないとばかりに。

若いころには叶わなかった、人生とショービズを同時に謳歌すること。ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン。ワン・モンキー・ドント・ストップ・ノー・ショウ。初秋の日暮れ、土砂降りを担う雨雲で少し暗くなった場外、最寄り駅にひとり向かいひとりごちる。カラフルなランドセルの小学生数人がリコーダーを吹き吹き連んで行進している。ひとりの女子のランドセルからぶら下がる好奇心旺盛な猿の小さなぬいぐるみが右に左に揺れている。わたしの濡れた前髪の先から滴る水が、信号の赤を反射させつつぽたりと落ちて、ほんの一瞬だけ視界を遮る。古い映画のフィルムの傷のように、幻のようなスピードでわたしの左目を襲う。たった一滴分の祈り。この瞬間だけの光。

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