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命が生まれる(2)

京都には陣痛タクシーと呼ばれているものがあって、産気づいた人を病院まで送り届ける特別な車がある。実際のところは、車内で破水した時のために専用の防水シートを装備しているだけらしいのだけど、その車を運転するドライバーさんには会ってみたかった。きっと、天使みたいな目をしているに違いないから。

事前に用意していた入院バッグ(あれやこれや詰め込んだボストンバッグ)を抱えたまま、僕はタクシーに揺られていた。時刻は午前2時をとっくに過ぎていて、道のりは凍りついたみたいに黒々としていた。もしも窓を開けて空を仰いだなら、そこにはオリオン座が輝いているはずだ。タクシーの屋根が全部ガラスだったらいいのに。

「少し時間はかかるのですが」
と、タクシーのドライバーさんが言った。
「なるだけ穏やかな道で行かせてもらいます」

10分おきにやってくる陣痛のせいで、うちの奥さんは病院に着くまでの間にシートに二回も爪を立てなければいけなかった。そのたびにドライバーさんはミラー越しに振り向き、スピードを一層緩めてくれた。陣痛タクシーは予約できなかったけれど、と僕は思う。この人でよかった。

「大丈夫?」

「……うん」

「あの、大丈夫なの?」

「……うん」

奥さんのためじゃない。僕は自分を安心させたくて聞いていた。沈黙がこんなにも不安にさせるものだなんて。入院バッグに手を突っ込んで、いますぐ目覚し時計を鳴らしたかった。力づくでもいい。僕の中の父性を目覚めさせたい。おい、自分。しっかりしろよ。

角を曲がり、橋を渡って、月の光が反射するビルのガラス窓を過ぎる頃、ドライバーさんが最後のウインカーを灯した。車は吸い込まれるように病院の車寄せに入っていき、やがてドアーが開いた。僕は奥さんの手を取ってタクシーを降りた。奥さんは黙って体重を預けてくる。一人と、それからもう一人の重さがそこにはあった。

タクシーから降りるわずかなステップでさえ脅威になる夜に、僕はずっしりと背中を丸めて産婦人科のドアを叩いた。

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