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「無言Ris哲」の報告


2019年3月にフェイスブックに投稿した記事です。現在、「Twitterで哲学対話」という企画を準備中で、何か参考になるかもしれないと思い、こちらにも掲載いたします。


先日、Ris哲合宿という恐ろしい企画(1日に3-4回様々な哲学対話にチャレンジする)があって、その最後に「無言Ris哲」があったのですね。その「無言Ris哲」について、色々思うところがあったので、書いておきます。


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「無言Ris哲」についての雑感

「無言Ris哲」とは?
・喋らずに哲学カフェを行う
・テーマは「言葉の役割」
・一回20分、休憩10分を、結果として四セット(全体で二時間)
・議論は主にホワイトボード、LINEグループを用いる(その他、ボディランゲージなども使用可)


結果
①議論はスピーディーに

②議論が複線化(同時にいくつかのテーマについて議論が展開)
 僕にとって良かった点は、普段の声を用いての対話の持つ暴力性/非暴力性と、文字のみでの対話の暴力性/非暴力性があらわになったことです。どういうことかというと、声を発しての対話は、おのずと「今・ここ」で話しているのは一人となります(哲学対話でのルールがその傾向を強めるように設定されているわけです)。それは対話の連続性の確保につながる反面、「今・ここ」での他者の発言が抑圧されているという点で、暴力的な側面を有しているといえます。
 文字を用いての対話では、ホワイトボードの左右上下で、あるいはLINE上で同時にいくつかの議論が進行され、「今・ここ」の対話が一人が独占するという暴力は、抑止されます。しかしながら、その同時性は、自分の関わらない議論への無関心を生じさせ、複線化した対話が統合されないという結果ともなりました。
 さらに、声を用いての対話では、相対的にスピードがゆっくりであり、相手の表情や声音などの情報によって、相手の理解・納得を推定しやすく、相手の理解・納得が不十分であるときにはブレーキがかかりやすい(それゆえに、スピードはさらに減速される)のに対して、文字を用いての対話は他者が対面していないことによって、それらのブレーキがかかりにくく、結果として相手の無理解を放置したままで対話が進行しやすいという特徴を持っていました。

含意

①声を中心とした「現前の形而上学」に対する、エクリチュールを対置する、デリダの哲学を実感しました。

②他者との対面という、レヴィナスの哲学を実感しました。

③現代のSNSにおける他者との繋がりの拡大と希薄化、グループの縮小・同質化と他のグループの無視、縮小されたグループであるにもかかわらずそれを「全的なもの」と感じる傾向などを、「文字を用いたコミュニケーション」による帰結として、考察できそうな気がしました。
 この手法を恒常的な採用するかどうかはともかく(実は僕は否定的です)、哲学カフェの運営をされている方は、「対話」を見つめ直す機会として、一度くらいはトライしてみても面白い試みであると思いました。


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