原爆被害者を弔い、誕生日を祝う

 人生で21回目の誕生日が来た。私にとって誕生日と原爆投下は切っても切り離せない存在である。

広島原爆投下の次の日、8/7は我が誕生日だ。

自身が生まれた記念日がもうすぐだとにワクワクしてる8/6、テレビもニュースもラジオもsnsも原爆一色となる。自然と私の心も誕生日から原爆死者への悲しみの念へと変わっていく。



8/6は私にとって生と死について最も考える日なのだ。しかし、大学に入学した年からは期末テストと期末課題に追われて誕生日なんてどうでも良くなっていた気がする。

今年も、戦争とは何かについて考えてきた10代の少女はどこかに行ってしまい、目の前には徹夜明けの虚ろな目をして留年に怯える落第大学生の姿しかない。忙しさは平和や戦争について考えてる余裕をなくしてしまうらしい。


だからせめてもの償いとしてこの手記を残しておくことにした。

生まれて21年、最も戦争・紛争が身近な誕生日、それが今日だ。
それは私が賢くなったのか、暇だから世界のことを考える時間が長いのか、正直よくわからない。

戦争の恐ろしさを実際に体験したことはない。広島にも長崎にも行ったことがない。そんな私にとって、実際に見た戦争の恐ろしさは祖父と父の関係だ。

祖父は私が物心着く頃には既に認知症が進行しており、私は孫だと認識されていなかったし、私が幼い頃に亡くなった。父も祖父の話は、ここ数年話したことはなかった。そのため私は祖父と父の確執について知ったのはつい最近のことだ。

父は賢く、初対面の人にも友好的で穏やかで、その割に、ちょっとしたことをきっかけにプツリと糸が切れたように怒りはじる人だ。それでいて常に愛情と承認に飢えているような。変わった人なのだ。


私たちが大人になって気が抜けたのか、はたまた祖父母をきっかけに地元に帰ることになったからなのか、祖父母が亡くなったからなのか、わからないが、父親はここ数年祖父母と仲が悪かったことなどをするようになった。


「あの人(祖父)はとんでもない人だった。それで俺もこんなになってしまった。でもあの人をあんなにしたのは戦争だった。」
と父は言った。

それを聞いて私は憐れみと恐怖と怒りでどうしようもない気持ちになった。
祖父は父にとって加害者で戦争の被害者であった。

私は父の努力と父と離れて暮らした時期の長さから、幸いにもその呪いを受け継がずにすんでいる。
しかし、きっとどこかで戦争という加害を受け継ぎ苦しんでいる人がいるという事実が恐ろしかった。

22回目の誕生日には、戦争の不安なんてものがそこら辺に吹っ飛び、そして今後何千回何万回ある8/7がずっと戦後であることを願うばかりだ。

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