漫画しか読まない腐女子が木原音瀬の「箱の中」を読んでみた

 私は腐女子である。「年間100冊を超える商業BLを買ってる!」とか「歴が長い」とかではないが、飽き性な私が懲りずに6年ほど好きでい続け、創作し、課金し続けている唯一のジャンルが創作BLだ。
 また私はそれなりに小説を読む方でもある。理由は読んだ方が人生が豊かになるとどこがで聞いたからだ。いわば教養と勉強の一貫である。
 そんな私は創作BL小説というものを今の今まで読んだことがなかった。自分の中でBLは趣味であり、読書は勉強であると区別しかったのかもしれない。
 何故私がBL小説である「箱の中」を読むに至ったかはnoteに書き記すほどのことでないので割愛させて頂く。
 BL小説を読まない腐女子の初のBL小説「箱の中」はとてつもない衝撃だった。少なくとも、文章を書くのが苦手な私がnoteのアプリをインストールし、アカウントを作成し、気持ちを吐き出すくらいには感情を揺さぶられた。読んでる途中で辛くなりもう止めたいと思うくらいに心臓が痛いのに、すいすいと頭に入ってくる文章の心地よさ、描写の巧さ、登場人物や出来事の無駄のなさに読む手が止まらない。辛い、悲しい、読みたい、面白い、ぐちゃぐちゃの感情で朝1時間、夜1時間の合計2時間を費やし完読した。ご都合主義に慣れてしまった自分には少々ヘビーな作品でありながらもその読みやすさから一気に読んでしまった。頭が上手く働かない。今が夏休みであり明日バイトが休みでよかった。
余談であるが、私は子供向けアニメが好きだ。わかりやすく簡潔で子供らしい勧善懲悪のストーリーは見ていて心地いい。そんな私はBLにも「勧善懲悪」を求めているし、私がごくたまに趣味で描く漫画も多分子供向けのような陽気さに振り切ったものの方が生き生きしてるように思える。
 しかし「箱の中」は勧善懲悪とは無縁のものである。主人公である党野と喜多川に起きる出来事は可哀想で理不尽でやりきれないものだ。そこにBL的大逆転もご都合主義もない。理不尽な出来事は理不尽なまま主人公たちを蝕んでいく。しかし「箱の中」においてその理不尽は読み手のリョナ的嗜好を満足させるものではなく、理不尽たちは物語に必要不可欠なものであり、喜多川の党野への「愛」を描く上で大切なものであるように思える。
 箱の中において彼らが受ける理不尽は非現実的なものではないが、殆どの人が当事者になることなく人生を終えるものであり、私たちがリアルに共感することは難しい。しかし彼らに降り注ぐ理不尽の傷の経過はのうのうと暮らす私の小さな理不尽の傷の経過に重なるものがあるような気がする。だからこそリアルで胸を締め付けられる。また、箱の中の性交の描写はBLらしからぬ痛々しさであり、それもリアルで生々しい雰囲気を加速させている。非リアルでありながら、もしかしたらどこかに党野と喜多川が生きているんじゃないかという現実感がそこにある。また三浦しをん先生によるあとがきも大変よく、BLとはと考えさせられるものだった。

 長々と書いたが端的に言えば、人生初のBL小説は最高に私の感情を揺さぶり、今まで食わず嫌いしてた自分が相当馬鹿だったという話だ。読書を勉強で終わらせるのも勿体ないように思えてきた。調べてみると文庫版箱の中だけでは箱の中全てを網羅できていないらしい。そんなわけで明日私は箱の中のBL版を購入するために街を闊歩する予定だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?