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【自著再考】 「愚かであることの可能性」(初期Chim↑Pom論)を2020年にもう一度、考えた

Chim↑Pomとの最初の出会い

私がChim↑Pom(チンポム)作品に出会ってから、13年くらいになります。桜井圭介さんがオーガナイザーを務めた「吾妻橋ダンスクロッシング」に彼らが参加して、アサヒアートスクエアというアサヒビールが所有しているリッチでバブルな会場のトイレへの通路で、ひっそりとといえばひっそりと、黄色いネズミの剥製(『スーパー☆ラット』)を展示していて、たまたまトイレの帰りに卯城竜太さんに呼び止められて、作品の説明を聞いたのが、私の最初のChim↑Pom体験でした。2007年6月に発売された『10+1』には、私のはじめてとなるチンポム論(と言うと大袈裟で、テーマに沿ってチンポムに言及したもの)が所収されています。その8ヶ月後、このエッセイが主として取り上げる「愚かであることの可能性」というChim↑Pom論を書きました(本稿の末尾に「愚かであることの可能性」のテキストが添付してあります)。

まだ渋谷系「ギャル男」というスタイルが残存していた東京の片隅、ギャル男というべきではないがいかにも渋谷に居そうな風体で、快活な男の子がともかく楽しそうに自分の作品について説明しまくっていました。その元気の良さやおしゃべりな様子がよくある「現代美術作家」の雰囲気とは一切関係ないといった感じで、そのひと時がともかく楽しかったのを覚えています。2020年の今となっては、日本を代表する世界的な現代美術作家集団となってしまった彼らだけれど、↓に記されているように、ともかく初期は「イタズラ大好き集団」というのが、私にとってのChim↑Pomのイメージでした。

註↑2007年の「吾妻橋ダンスクロッシング」に参加したChim↑Pomの様子が桜井圭介と野村政之の対話から振り返ることができる(「吾妻橋ダンスクロッシングの10年とこれから」 ResearchJournalIssue01 )。

そして、私にとってChim↑Pomの代表作は『ともだち』であり、これを凌駕する作品はその後作られていないというのが、Chim↑Pomに対する私の批評的立場です。

『ともだち』と「愚か」さの意味

「愚かであることの可能性」は、2008年に書かれています。おそらく、Chim↑Pomをめぐる最初期の論考の一つです。その後、私は数本のレビューをartscapeに書いてきました(末尾に付録)。すべてと言うと嘘になるし、いまや海外での展示の方が多いのではないかと思われる彼らの活動を2007年以降網羅的にフォローできているとはとても言えないけれど、私なりにChim↑Pomを見てきたその基礎になっているのが、この「愚かであることの可能性」と題した論考なのです。

ここで「愚か」とは、最大の賛辞のつもりで用いています。Chim↑Pomの魅力は、通常のアートの場所(例えば、アトリエ、ギャラリー、美術館などの専用の場所)をはみ出して、社会へと枠を踏み越えてアートを実行するというところにあり、それは最初から彼らの得意技だったと思います。もしもその際、賢明で、知的な予防線を張り巡らして、社会と向き合ってしまうと、それは正しい振る舞いかもしれませんが、その正しさは、アートのたたずまいを多少なりとも硬直させてしまうでしょう。背筋をピンと張った品行方正なアートばかりになると、リラックスして未知の世界へと飛び込もうと「靴下脱ぐ」みたいな気分の私たちが、何やら恥ずかしいような気持ちにさせられてしまいます。それなのに、残念ながら、それがアートというものだと居直っても異論なし、という態度がどこかアート界隈にはあります。

でも、そういうアートを覆う非アートな表層を打ち破って、アートや物事の深層・真相に迫るには、「愚か」である必要があります。このとくに初期に目立っていたChim↑Pomの「いたずら」精神は、彼らが著書『芸術実行犯』などで「ひっくり返す」ことを信条としていると発言していることとは少し違っていて、ひっくり返るかどうかもわからない、当たって砕けろ精神が漲っていて、素敵だったんです。

もちろん、それを突き詰めると誰かが死ぬまでやる、みたいになってしまいかねません。そのリスクを抱えて、でも、若さを前面に出して、けろっとした顔をしているChim↑Pomがともかく当時とても頼もしかったなあ、と思い出します。その時期の問題作が『ともだち』でした。

この点を真面目に論じるためには、おそらく「シュルレアリスム」の試みとChim↑Pomを比較考察する必要があるでしょう。それはとても大変な作業になるでしょう。シュルレアリスムの研究者である鈴木雅雄さんの言葉を引用して、

「意図して愚かであることは不可能だが、誰かとともにあることでそれは可能になる場合があり、またその可能性がゼロでない程度には、私たちはみな愚かなのではなかろうか。」

という点を、この論考で私は考えていました。いつか、しっかりこの点について、自分なりに考察してみたいと(できるか、わからないですが)思っています。ここでは、その考察の代わりに、当時のエピソードを記しておきたいと思います。

『ともだち』は、Chim↑Pomメンバーが、別の目的で青木ヶ原樹海を散策していた時に、思いがけず見つけてしまった自殺者の遺留品とその傍らにあった丸太を持ち帰り、ギャラリー会場に展示した作品です。展示を見て10年以上がたったいまでも、こうしてこの作品のことを思うだけで、私の体は鳥肌が立ち始めます。狭い会場の真ん中に、この丸太は吊るされていたのですが、確か、メンバーが次々と高熱にうなされたそうです。この行為と高熱との因果性を考えるなんて非科学的だと理性的に判断することができかねるほどに、この時のギャラリーには何やらただならぬものが確かに漂っていました。

こんなこと安易にやるものじゃない。本当にそう思います。YouTuberのみなさん、売名行為で真似しないでくださいね。そういうことを煽るつもりでコレを書いてはいませんよ。ただ、Chim↑Pomが彼らの実力(あるいは実力以上の何か)を発揮する時というのは、『ともだち』のように、不思議な関係で引き寄せられた誰かとの、意図してはいなかったコラボレーションが偶然的に叶ってしまう、そうした時なのです。ネズミやカラスや、『ヒロシマの空をピカッとさせる』以後の坪井直さんとのつながりなどは、その典型例です。

このChim↑Pomの特殊性、アートらしからぬ姿勢というのは、彼らが「アート」より「愛」を優先しているが故のことだと考えることもできると思います。この論考の冒頭に挙げた鈴木さんのテキストが述べているように、「愛」が先行するからこそ「愚か」であり、その「愚かさ」を有しているからこそChim↑Pomは重要なアートを生む集団であるという逆説が、とても重要だと思うのです。ここに、拙著『笑いの哲学』で触れた、Chim↑Pomがユーモリストであることの可能性も見え隠れしています。


付録

まとめてみると、私はartscapeにこれだけChim↑Pomのことを書いていました。彼らの活動を網羅するものではないけれども、でも、小さいギャラリー展示にも言及しているのが分かります。末尾に「愚かであることの可能性」が添付してあります。

出典 木村覚「愚かであることの可能性」『REVIEW HOUSE 01』REVIEW HOUSE編集室、2008年、pp. 34-35。

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