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デザインにしてデザインにあらず~ゲームデザイン事始め⑤~

ゲームデザイナーというと、グラフィック系の「デザイナー」と勘違いされることが多い。前職の書棚にはゲームデザイン関連の書籍がグラフィック系の棚に置かれていたりもした。もうめんどくさいので「ゲームクリエイター」と称することもあるが、クリエイターという表現にはやはり抵抗がある。というのも、クリエイターとは「表現で問題解決する人」という定義が自分にはあって、そこは譲れないところだからだ。
え? そんな人、どこにいるのかって? 広告業界である。いや、広告業界以外にいないのではないだろうか。コピーライター出身の自分としては、若い頃からそういったクリエイター定義を自らに言い聞かせながら仕事に向き合ってきたので、体に染み付いていて抜けない。まぁ、問題解決といっても、そのほぼすべてはグッドウィルの醸成だ。グッドウィルとは好意的に受け止められることだが、そう簡単にはいかない。「認知度」と「好感度」を同時に獲得しなければならない。そもそも人は広告になんて正面から向き合わないのに、そこへ割り込んでいく必要がある気の重い仕事なのである。有名人と仕事をしたり、なんか陽キャのイメージの強い広告業界だが、実際の制作現場はかなり鬱々としている。「これはブレークスルーするぞ!」と思いついたアイデアであっても、クライアントで却下されれば元も子もナシ。広告クリエイターの多くは、半ば恨み節のように「クライアントがやわらかアタマであったなら~」と口にすることになる。
その昔、キンチョーのオモシロCMを取り上げた『右脳思考の 左巻き宣伝部―金鳥CM全集』という本があって、多くのクリエイターは溜飲を下げたものだ。キンチョーのCMに通底するセンスは「自分を笑うこと」である。これができると一気に消費者との距離は縮まるのだが、当然、クライアントによって向き不向きはあるので王道ではない。ただ世界的な広告賞であるクリオ賞の受賞作品などを見ていると、ユーモアや風刺の効いた作品が多く、オーディエンスの心のスイッチを入れるには適している表現手法なのは間違いないだろう。反対にもっともやってはいけないのが「自分を良く見せる」ことだ。商品やサービスを売るのに良く見せてはいけないなんて、まるで禅問答のようではないか。
一方、ゲームデザインは独善性の塊といっても過言ではない。独善である以上、その責任を負うのも自分しかおらず、広告業界からゲーム業界に移ったとき、そのコードの違いに戸惑った。矢面に立つのは自分だけということなのだ。今となっては、外角高めの球筋を得意とするが、たまには狭義の「デザイン」的な作業もしてみる──
図は『クーロンズリゾーム』の壁紙サンプルだが、最終的にはデザイナーの手になるものの、とりあえず購入したテクスチャ素材をベタベタ貼ってみる。ただ具合がわからないのでフリーの3Dソフトで奥行きやパースの下書きをこしらえておく。このソフト、発注局面で相手に仕様を伝えるドキュメント作成において重宝する。逆に言うと、ゲームデザイナーの「3DCGデザイン能力」はこの程度で充分ということにもなる。

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