【2020前半を振り返る、その3】3月中旬〜4月中旬

コロちゃん案件で自分史上でもかなり異例な年になった2020年をゆる〜く振り返るシリーズ、第3段。カフェの仕事がお休みになり休暇気分でゆっくりしたのもつかの間。楽しみにしていた旅行は絶望的となったのが前回。3月末からいよいよ実感を伴う形でコロナこわいと感じつつ、働くことと向き合う日々だった。

影響を肌で感じた酒屋での日々

この頃はカフェは休業なので、もう一つの職場である地酒の酒屋で働いていた。わたしは主に接客をするので、お客様とはコロナ話でもちきり。いつも仕事帰りに寄るお客様がラフな格好でお子さんと来店すると、在宅勤務ですかという話になる。家飲みが捗るという話で盛り上がる反面、店にとって最大の顧客である飲食店の窮状を思うと胸が痛んだ。在宅でリモート飲みを楽しむお客様がいるということは、仕事帰りに同僚と飲み屋で交わす乾杯がなくなるということだ。また、この時期は多くの歓送迎会のキャンセルに見舞われただろう。飲食店から自粛要請で当面休業という連絡が入るようになるのがこの少し先だ。飲食店の状況に合わせて、店のバイヤーたちも酒蔵に注文のキャンセルをせざるを得ないことも出てきて、お詫びをする姿を見ると辛い気持ちになった。

3月末。土日の外出を自粛するようになり、都心より住宅街で多くの人が「ちょっとだけ」外に出かけていたのではないかと思う。酒屋へも、買い物帰りになんか面白そうだから見てみようか、とカップルや家族連れで店の中をフラッと一周して帰ったり、終わりかけの桜や春らしい陽気を歩きながら楽しむのだろうか、購入したクラフトビールの栓を抜いてくださいと頼まれることもあった。率直に、ギャップに疲れていた。安全の観点から早くからカフェは休業の対応をとってもらい、仕事以外ほとんど家からも出ず、マスクとこまめな消毒で万全を期して働いてるわたしからすると、マスクもせず、密も気にせず商品棚に集まり、前の人に接近して会計を急かす、あげく「昨日一緒に飲んでた友達が37度台出ちゃっていま病院行ってるよ」と平然と言ってのけるオヤジ。来んなよ!の一言をマスクの中に飲み込んだ。あまりにも期待とのギャップが大きかった。百合子の声は届いていなかったのだ。

誰も悪くなかった。今となってはそう思える。お客様はストレスの溜まる生活の中でお酒に癒やしや仕事への活力を求め、店はお客様の期待に応え、少しでも売上をあげたい。店が存続することは、取引のある酒蔵や飲食店にとっても大切なことだ。だが、わたしはもう、心からお客様を歓迎できないところまで来ていた。それでもいいや、とは思えなかった。歓迎できない気持ちで店に立っているのは心がもたなかった。わたしは自分を理想的なサービスパーソンとは思わないけれど、心にも思わないことを作り笑顔や聞き心地の良い言葉で覆い隠すことを接客術とは思わないくらいには素直だった。緊急事態宣言後の初の土日でも状況が変わらず、勤務後にぶっちゃけしんどいし、落ち着くまで休みたいと店に伝えた。気持ちはわかった、寂しいけど、店も忙しくないし今は困らないけど、帰ってきてね、と言ってくれた店には感謝の気持ちしかない。ただ休むのは忍びなく、店を良くしたかったので、お客様が安全に店の中で過ごせるガイドライン、スタッフ側の安全のマニュアル、感染防止を意識したオペレーションへの改善、力を入れているオンラインストアへの誘導方法や家飲み応援企画、飲食店支援の施策など、思いつくことをすべて文書にまとめて伝えて(そして出来ることはすべて取り入れてくれた、素晴らしい職場だと思う)いよいよすべての仕事が休みになった。

都内在住の親を心配することになる

この時期もう一つ懸念だったのは、都内に住み、電車で通勤する親のことだった。自分の親だからかあまり客観視したこともなくふざけて高齢者と呼ぶくらいだが、70歳の立派なおじいちゃんおばあちゃんだ。高齢の親が都内に住んでいてなにかあったらすぐに駆けつけられる安心が、都心での感染が広がるコロナ禍では不安に一転した。心配で仕方なかった。父は毎日電車で通勤しており、基礎疾患こそないものの数年前に大病をして体も丈夫じゃないと思うと、気が気でなかった。在宅勤務にならないか日々電話で迫ったり、仕事のやり方を聞き出して在宅でできるところはないか考えようとしたり、感情的になって泣きそうになったりもした。高齢だし辞めてもいいんじゃない?という言葉が喉まで出かかって辞めた。そして、いたたまれない気持ちになった。父は第一線は退いていても、やりがいと責任感を持って働いているのだ。もちろん、その時の社会的な重要度や緊急度ではエッセンシャルワーカーとは比較できないが、父自身にとってその仕事が重要なら、それはやるべきなのだ。公務員だったこともあり、災害時でも職場へ通って働き続けることへの使命感もあったのではないかと思う。コロナは半世紀近く従ってきた父の価値観を問い直させようとしたし、わたしもそうしようとしていた。父はわたしの気持ちは理解してくれたが、そうはいってもどうしたらいいのか、と困惑していた。

とにかく父は出社して働く。彼がそう決めたならもう、感情的になったり漠然と心配しても仕方がなかった。通勤していたらいつ感染してもおかしくないという心構えで、感染したときにどうするか?に焦点を移した。いざというときにかけつけられないのだ、自力で対処してもらうためにどうしたらいいのか。そこで、4月に入ってすぐわたしがやったことは以下だ。

・マスクや消毒スプレー、ハンドソープを買いに混んでいるドラッグストアに行くのは避けてほしいので、足りなくなりそうになったら家族LINEで報告するように決める。

・まずは、コロナ感染の疑いをすばやくキャッチするために検温する、さらに毎朝家族LINEで報告するように決める。

・コロナかも?と思ったときにパニックにならないための行動を整理。具体的には、東京都が出しているガイドラインを印刷し、管轄の保健所やかかりつけ医、わたしたちの電話番号を大きな文字で記入。今飲んでいる薬や保健所とのやりとりをメモできるページを作る。これらをすべてひとまとめにして郵送し、家と通勤用に持っておいてもらうようにした(写真)。行動が明確になってイメージしやすくなったのは、両親にとってもよかったようだ。

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父は、その後5月には週に2,3の在宅勤務を行うことになった。職場では主要な業務をリモートで出来るようにベンダーに入ってもらい改善を始め、自発的に家でもメールを見られるようにはしておいたんだ、とドヤる高齢者を見てその頼もしさにようやく少し安心できた。明日から在宅勤務ね、と言われてPCとネットでスムーズに働き始められる人ばかりではない。(もちろんリモート環境にスムーズに移行出来たからと言ってストレスを感じないことも稀だろう)。現場をリタイヤしたシニアばかりの父の職場でもみんなが少しずつ旧来のあり方を変えようと努力していた。それを見て嬉しいと同時に、わたしはわたしの「今は休みたい」という判断が正しかったのか、よくわからなくなっていた。たしかに家から出なくなって感染のリスクは格段に減ったが、自分だけが努力せずサボっているような気持ちにもなって、この頃は情緒もおかしくなっていた。だが、おかげで安心できたと夫が言ってくれたこと、家事と健康管理を徹底して繁忙期に入る夫をサポートすると決めたことで、自分を肯定できた。(ちなみに、夫が勢いよく出した水道の水がワッとわたしの服にかかって泣きだすくらいに、情緒がおかしくなっていた。)

人には人の事情があって、わたしにはわたしの事情がある。他人を変えようとすることも、他人と比較することも意味がなかった。逆に、恵まれていると比較されることもなかったわけではない。職場では迅速な対応や柔軟な理解を得られ、家でも孤独でなく穏やかに暮らしているのだ。申し訳なく思う必要はないけど、弱音は吐けない感じがあった。コロナ禍を極めて冷静に過ごしてきたと思っていたが、この時期を振り返ると心配と安堵、沈鬱と活力が交互に押し寄せるようだった。



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