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気化する音楽を前にして描いたスケッチ〜 坂本龍一 『12』


端的にリスナーに気力と体力を要求する傲慢な作品である。しかしその傲慢さこそが本作の核すなわち本質であり、かつてレコードやCDが広く流通していた時代の物体としての(固体性のある)音楽から、今日ではストリーミング・サービスの繁栄によって簡単に聴取され消費されてゆく、言わば「気化」しつつある音楽。そんな音楽そのものの物質性を改めて問いかける本作は、リリース前の予告を加味したとしても特段異様に聞こえる。本作がスケッチであり、ライブ音源とはまた別物であるということ。その作品性には作家自身が侵されている身体的な問題(闘病生活)も含まれていることから、本作を額縁に飾られ世俗とは隔絶した無機物としてみなすことは不可能であるということ。本作は、今日の市場に流通する編集や加工が繰り返され、クレジットの人数も膨大な音楽とは相対するいわば「生産者の顔が見える音楽」である。しかしそのような音楽を前にして我々は安心感を得るどころか畏怖すらも感じてしまう。普段耳にする音楽の加工性と大味さがここにはないじゃないかと、震えてしまう。畑に足を運び生産者を目の前にして生(なま)のピーマンを齧ってみろと言われているような、そんな感覚に襲われる。"何も施さず、あえて生のまま提示してみる"という坂本の言葉。マヨネーズをディップすることも許されず、ZAKのマスタリングという僅かばかりの(しかし必要不可欠な)洗浄を経て、目の前の皿に出されたこの『12』という作品にどこから手をつけたらいいのか、どうナイフを入れればいいのか、試される。

本作にそのまま録音されている坂本の呼吸音。しかしそれはジャズピアニストがソロを弾く時のうねり声やジェームス・ブラウンがキメで発する号砲のようなものとはまるで種類が違う。半ば一定のリズムで繰り返される坂本の呼吸音は、まるで生(せい)の胎動を刻むようにして、同時に指先のピアノが描く叙情の移ろいを補完していく。呼吸音という生身のメトロノーム、生身の時計の針、によって浮かび上がった時間性の上をピアノの旋律が歩くように動く。そうして一曲(一日)の中に巡る季節を映し出す。アルバム全体の世界観(コンセプト)が前提化した今日のポップ・ミュージックの体系を離脱し、一曲ごとに描いた季節だったり感情、そのショットをもとに、結果的に全体を通念することとなった思想を作家自身が発見し「アルバム」としてまとめ上げた。これは近年でも多くのサウンドトラックの仕事を務める坂本だからこそできる筆致のように思う。映画のワンシーンにマッチする音楽を書き下ろすように、窓から見える光景だったり温度や湿度に対して音楽をつけていく作業。しかしその「作業」が単なるプロダクションの一環ではなく、生(せい)の営みと同化しているからこそ放つことのできる切実さゆえの煌めきが本作にはある。前作『async』のように庭に出て様々な物体を叩きながら「音」を探していく坂本の姿こそ本作にはないが、手が届く範囲にある最小限の楽器を使って作られた本作は、結果的にその作家自身の身体と強く同期している。「絵を描く側」から「絵」になったのだ。と思う。ともなればリスナーに気力と体力を要求するのも当然であり、むしろ傲慢なのはそんな作品を世間一般の音楽の時と同じ気分で眺めようとする我々の方なのかもしれない。


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