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昔、遭難騒ぎを起こしました

今から32年前の学生時代、遭難したことがあります。いや、正確には、「遭難騒ぎを起こした」です。地元紙をちょっとだけにぎわせてしまいました。私は当然見てませんが、テレビでも各社放映されたようでした。
9年ほど前に書いたネタですが、そのときのことを改めて書いてみようと思います。長文です。

私の在籍した学科(地質学古生物学科)の卒論はフィールドワークの成果をまとめること。3年生から2年間かけて、ほとんどの学生は山ごもりします。そのため、初夏の頃と、8月から10月まで、授業は一切ありませんでした。
知らない山域でのフィールドワークもさることながら、地質調査の成果を記した地質図と論文の取りまとめ(800字詰め原稿用紙が軽く100頁を超えた)が要求されるかなり厳しい卒論審査で、毎年学科のメンバー14、5人中、3~4名は自ら卒業を諦め留年していました。

私も2年間で延べにすると約120日間以上、山ごもりしました。もちろん基本的に一人です。指導教官は年に2~3日、一緒に山を歩いてくれますが、それ以外は全て一人でこなさなくてはなりません。
山ごもりといっても、テントを担いでいくわけではありません。地質調査の山域近傍の宿屋を探し、そこに安く泊めてもらうのです。

同期の連中は、それこそ北海道から沖縄まで見事に散らばりましたが、私のフィールドとなったこの山域は皆敬遠しました。示された調査箇所の中では、最も厳しい山地形だったからです。
私は、高校のとき見たここの風景が忘れられず、近傍のここが卒論本当にラッキーと思いました。もちろんその時は、この山域のホントの厳しさは知る由もありませんでした。


民泊先を決めいよいよ調査開始です。交通手段は原付のスーパーカブ。街中のバイク屋さんで中古を2万円で仕入れたのでした。このカブちゃん、ホントに素晴らしいバイクです。2年間、まったく文句も言わず、どんな山道でも走破してくれました。


さて、フィールドワークは地質図を作ること。地質図を作るためにいちばん必要な要素は、もちろん岩石名同定もさることながら、次が重要です。
①岩露頭をたくさん見つけること。
②太古の地球の営みに想像力を働かせること。
③漫然と歩くのではなくその日見つけるべき地質を事前に特定すること。
④離れた箇所の同じ地質を同じ地質として認識すること(これが最も重要)。
そしてそれぞれのフィールドでは解明すべきテーマが与えられます。私の場合は化石の産出していないグリーンタフ造山期の地層から化石を見つけ出し、その地質の時代の確定を行うことでした。


傾斜のある山地での沢はほぼ連続して岩が露出しています。A沢で見えていた岩がとなりのB沢でも見られる可能性が高いのです。もしA沢で見た岩がB沢になければ、そこに何らかの地質境界があると言うことです。そのため、ルートは沢歩きが主体となります。2年間で沢らしい沢ほぼ全部を歩きました。


ルート行程計画はきわめて重要です。朝宿を出て、遡行開始点(≒調査開始点)に取り付き、明るいうちに林道に止めたバイクまで戻り、効率よく調査して来なければなりません。ルートは無駄な行程を極力作らないよう、一筆書きが基本です。例えばバイクで林道終点まで行き、そこから調査開始点まで遡行し、沢を登り詰め尾根に出て、また林道終点近くに下る別の沢を下りるという行程です。時により尾根越えが1日に2回になるときもあります。自分の山歩きの力量ももちろん勘定に入れなければなりません。そして現場でいちばん重要なのは読図と方向確認。特に尾根から次の沢に降りるときが最も神経を使います。スマホのGPSがある今ではルート取りは比較的楽ですが、当時は地形図読図とクリノメーター(コンパス)使いは、生死さえも分けるサバイバル技能としてさんざん鍛えられました。


山行の苦労や危険を挙げればきりがないので、詳しいことは割愛しますが、2年間、命の危険を感じたことは一度や二度じゃありませんでした。


さて4年生になって10月も後半に入り、残された時間は10日程。行程上も、10日もあれば、ほぼ計画通り全域を網羅できるまでになりました。でも、ギリギリの行程です。問題のルートに取り付く日が来ました。そのルートは、調査行でもっとも長いルート取りでした。実はこのルート、山中一泊をしなければ難しいと、3年生の時から問題視していたルートでした。こういう難しいルートは、やはり最後の方に残ってしまいました。


図の徒歩開始点→A→B→C→B→A→バイク戻りのルートです。

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慢心がありました。当初はA点からB点を事前調査し、B点からC点のある程度を先行調査するつもりでした。ところが、A→B→C→B(→A)ルートを1回で済ませる事にしたのです。なぜそれが出来ると思ったのか、今となってはその心理が自分でもよく分かりません。


当日、かなり早く家を出て取り付きました。途中の鉱山跡地は既に「かこ沢」(地図参照)方面調査で知っています。「つわもの共が夢の跡」。かなりデカい鉱山跡地です。もう旬を過ぎたアケビが、たわわに実ってました。
調査開始点のA点に着きました。きっと午前11時前後になっていたと思います。この沢は鉱脈の試掘坑跡がたくさんあり、沢を曲がった先に、ぽっかりと試掘坑跡が出現したりして何が先にあるか分からない「怖い」ルートでした。


そして尾根越えのC点にたどり着きます。秋晴れのホントにいい天気でした。時計は確か2時くらいを指していたと思います。陽がちょっと暗かったけど、何故か意識がスルーしたのでした。翳りはじめていたのです。その時は意識に上りませんでした(異常に気付かなかったのです)。
沢の中は元々暗いのですが、時計は2時過ぎのはず。下る沢をC点からB点に戻る途中で、異常に暗い事に初めて気付きました。
時計をマジマジと見ました。するとどうでしょう、秒針が動いていません。「し、しまった!」安時計の電池切れでした。一瞬で「ヤバイ」事を悟りました。


走るようにして沢を下りました。滝壺に自ら落っこちながら、水を飲みながら急ぎました、さらにバカなことに、いつも1個だけ食べないで残している握り飯が入ったザックを、ロックサンプルとともに沢の途中に置いて身を軽くしました。握り飯の他に、非常食のスルメが入っていたのに。家まで戻らなきゃなんないという意識がそうさせたのでした。冷静な判断がその時は出来ていなかったのです。しかし、これはどうしようもない、という現実に気付かされるのに時間はかかりませんでした。


もうかなり暗くなって足下も覚束かなくなって来ました。「こりゃあ覚悟を決めるときだ」と、初めて悟りました。野営地を決め、少ない明かりの中で、流木を集めはじめました。恐らくそれが、図のD点のあたりなのでした。


10月後半の山中、かなり寒いはずです。全身ずぶ濡れですし。(沢歩きでは、腰から下はほぼずぶ濡れです。身体が濡れることに抵抗がなくなります。)
当時学生の分際でタバコを吸っていました。残りガスの少ないライターが2ヶ、着ていた釣り用のチョッキに入っていました。
流木はすぐに集まりました。
濡れてしまったライターをほっぺたにくっつけ、フリント部分を乾かします。それまでも何度かずぶぬれになっていたので、ライターを回復させる方法は体得していました。
やっと火花が出てきました。これで安泰と思ったのだけど...
種木になかなか火が付きません。そうこうしているうちにライターのフリントがどっかに飛んでいきました。


だんだん焦ってきました。
ほとんどガスがないもう1個のライターでもう一度一からやり直し。もうライターの火力も弱ってきた頃、奇跡的にやっと種木に火が回りました。種火を消さないよう大事に大事に育て、なんとか暖を取る段取り(暖取りw)が完了しました。


もし火が付かなかったら、山の斜面に棒っくいで穴を掘り、そこに埋まるつもりでいました。


・・・・・・


何時なのか...。
腹が減っていました。
ずぶ濡れになったタバコを崩さないように流木の上に並べ、焚き火で乾かそうと懸命な努力をしましたが、うまく行きません。紙がベロベロで完全に乾燥させないと形が保持できません。最後の頼みのタバコも修復不能でした。


「もう今ごろ、警察に連絡しただろうなあ。」
「明日の朝、捜索隊が出るだろうな。」


大体の調査場所を伝えてあるし、バイクも林道沿いに置いてあるので、捜索はある程度ピンポイントで行うはずだと、オボロに考えながら、半分覚醒、半分朦朧としながら焚き火の前で座ったまま夜を過ごしていました。
身体の前面が火で火照っているのに、背中は冷気で冷たくなっています。かなり困憊していたので、身体の向きを変えることもなく、そのままの状態で夜を通しました。
なんかその状態が、恍惚とした感じって言ったらいいのか、苦痛ではなく、むしろ心休らむような心象として記憶に残っています。


夜が明けてきました。
もう動けるくらいの明るさになりましたが、なかなか身体にスイッチが入りません。早く山を出て捜索隊が出る前に帰りつかないといけない、とは思うのですが、完全に燃料切れです。
それでも、何とか気力を振り絞り歩き出しました。


とりあえず目指す先は鉱山の集合住宅敷地跡地のアケビ群落です。少し高台にあるこの敷地、木々が生い茂り、賑やかだったかつての鉱山の生活はまったく想像することができないくらい、荒れ果て、自然に同化し始めていました。


アケビはクマにも食われずそこにありました。
半ば腐りかけたアケビを、片っ端から喰らいました。月並みな言い方ですが、このときほど、アケビがうまかったことはありませんでした。


沢を越えて、最後の登りです。
ちょっとした登りですが、体力が消耗した私には、最後の難関です。このルートはかつての鉱山の住人たちが外界と行き来した道です。かつての道のあとが、チシマザサに覆われて、むしろ別のルートを歩いたほうが楽と思われるほど荒れていました。しかしこの道の情景は、今でもはっきりと記憶に残っています。


アケビの糖分がエネルギーに変わっていくのを実感しながら、登りきりました。あとはバイクを止めたところまで下るだけです。多少距離は残っていますが、はっきりしていて歩きやすい道です。もう捜索隊は出たはずだ...別のルートに行ったのか...まだ編成されていないのか...そんなことばかり気にしながら歩きました。


川に掛かる索道形式のつり橋※1を渡り、バイクまであと2、3分というところまで来ました。


前方に人が...、と思ったら、
昨日、山中でたまたま出会ったおじさん※2の顔が、破顔するのが見えました。そしてそのおじさんの後ろに、ごそごそ大勢の人たちが...

「おー--い!見つかったゾー!」
「えっ、見つかったってー」
「歩いて出てきたー!」


などと、きっと声が飛び交ったでしょう。(実はよく覚えていない)
私は、正直「間に合わなかった」という思いと、どうやら想像以上に大勢に迷惑をかけてしまったという思いで、いたたまれなくなりました。


※1 索道形式のつり橋
野猿(やえん)ともいうそうです。ヒト一人乗れる程度の大きさで、自分でワイヤーロープをたどって対岸に行き着くヤツです。
※2 山中でたまたま出会ったおじさん(Fさん)
実は昨日まさにA地点で出会っていたのです。
山の中でヒトと出会うのは、クマに出会うより珍しく、オマケにそのFさんと途中まで随行したのでした。Fさんの目的はマイタケ、私の目的はどう見ても地質調査。Fさん、私の姿を見て、キノコ狙いでないことを確認し、警戒を解いたのでした。

・・・・・・

「えがった、えがった」
先頭に立って捜索隊を引き連れていたFさん、しきりに握手してきます。
前日に逢ったときの顔とえらく違い明るい顔でしたが、その「えがった」の理由は、実は特別なものだったのです。


捜索隊は2班編成されていました。それぞれ20名ほど。
地元の消防団の人たち、警察、町役場関係者、営林署職員や作業員の面々。知っているヒトもいました。


「ゴメンナサイ」「ゴメンナサイ」と平身低頭で頭下げまくりました。
皆ニコニコ笑って、「*$(!>@!!」(何か声にならない声を言っていたような感じ。)


もう1班は東側の山域に移動中でした。
東西両側から攻めて、熊を追うようにはさみうちにする計画だったようです。トランシーバーで「自力下山」の報が伝えられ、その場で解散となったようでした。


こちらの20名も解散となり、林道に停めてあった車に三々五々と向かったようでした。
時間は朝8時過ぎ頃だったと思います。
その日は週半ば、それぞれの方のお仕事に支障が出ないことを切に祈りました。


私は、ワゴン車に拉致され、我が父母や姉、下宿先のお父さんと一緒に、下宿先に戻ったのでした。私の帰りをじっと待っていたキモリ号(スーパーカブ)は、義理の兄貴が乗って連れ帰りました。
下宿先の近所の人たち、玄関先で帰ってきた私のことを興味深そうに見ていました。
これはかなり恥ずかしかったです。


焚き火で顔が真っ黒だったようで、強制的に風呂に入れられ、強制的にご飯を食べさせられ、強制的に布団に入らされました。


...しかし、大きな騒ぎになったものです。
後から聞いた里の様子はこうでした。


・・・・・・


いつも暗くなってしばらくしてから帰ってくる私のバイクの音が聞こえません。夜7時も過ぎてしまいました。
下宿先のお父さんは心配して私の実家に電話しました。我が実家でも、ひょっとしたらということで、もうそのときは遭難現場まで車を走らせるつもりでした。


いよいよおかしい、と言うことで下宿先のお父さん、駐在さんに電話しました。駐在さん、万が一と言うことで、役場や消防団などに連絡をし、主だった人間でどう対応するか下宿先に集まって相談する段取りを始めました。
そこに1本の電話が...。(20時過ぎだった模様)
前日に山で出会ったFさんでした。


Fさん 「あー、わげぇのけぇってらがぁ」(若いの、帰ってますか?)
下宿先の父 「けぇってねー。なして知っでらの」
Fさん 「今日山であったのだ。けぇってねんじゃねがど思って電話すた」
下宿先の父 「どごで会った!?」
Fさん 「まんずおちつげ。私酒っこ飲んでしまったがらあすただ。ひとりでではって来るど思うんども、あすた、やすんで探してやるがらよー! 捜索隊なんか呼ぶなよー。んだば!」
下宿先の父 「まんず、切らねんで話っこきがせろー」
・・・・・・(以上、伝聞による再現)


Fさんの情報が唯一の情報です。いろいろ聞き出したのです。
実は前日、山で出会ったFさんと30分程度一緒に山歩き(沢歩き)しました。山深い道もないところで人に逢うなんて思わないものですから、お互いびっくりでした。
Fさんはびっしりと隙のないキノコ獲りの外見、私は地下足袋はいてザック背負って作業ズボンにハンマーぶら下げて、釣りのチョッキを着ていると、これまた滅多にない外見。
山のキノコ獲りのベテランと、地質調査の学生、利害関係はまったくありません。


世間話してるうちに、調査でどこそこに下宿していること、沢を登って降りること、地質図を作る作業だということを告げていたのでしょう。Fさんは途中で尾根に向かい、そこで分かれました。
Fさん、私が話したルートに、帰りの足あとがなかったのを見て、よもやと思い電話したとのことでした。そして、あの若いのだったら、絶対自力で帰ってくると思ったというのです。きっと擦り切れた地下足袋姿がそう思わせたのでしょう。


・・・・・・


下宿先は、明朝の捜索に参加する先立ちの人たちでごった返しはじめました。しかしFさんの電話情報により、捜索の場所、方法が俄かに決まりました。Fさん情報で皆元気付いたものの、もしかしたら滝から落っこちて動けなくなっているかもしれない、いう一点が、捜索隊を組む原動力になりました。


朝、女方の炊き出しが始まりました。約50名分です。
近所の人も手伝い、たった一人のために、壮大な準備が始まりました...。
そして7時半過ぎ、捜索隊は下宿先を出発したのでした。1班は東側の山域方面に、もう1班は、Fさんを先頭に前日たまたま2人が歩いた山域に...。
そして、捜索開始約3分後に、顔の黒い妙ちくりんな格好をした学生が、Fさんの思っていた通りの行動をして、ヌボーっと現われたのでした。


・・・・・・


その晩の地元新聞夕刊にこういう見出しの小さい記事が載りました。
「東北大生、自力で下山す」

(完)

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