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「質問」

「哲学」に詳しいわけではいけれど、
「哲学カフェ」「哲学対話」が好きだった。

はじめて参加した哲学カフェは、産後1〜2年の頃だっただろうか。
すっかり大人と話すこともなくなっていた時期、
正直に言うと、全く対話についていけなかった。
人の言ってることが頭に入ってこない。
聞こうとしても理解できない。
何がわかんないのかわかんない。
ふと気づくと頭で考えてることと、みんなの対話は違う論点になってる。
自分の考えが言葉にならない。

それでも「哲学カフェは楽しいものだ」という体感はあった。
「ついていけない」と思った後も、様々な世代の人が参加する哲学カフェに参加していた。

そして、ファシリテーターの方に、小さい子を持つママ限定の哲学カフェができないか、お願いをした。私も対話についていけるかな?という期待もあった。

実際に、ママ向けの会をしてもらった。参加者には仲良しのママさん同士で来てくれた人たちもいた。いつものママトークのようになるのかな?と思っていたのだけれど、ファシリテーターさんが入ることで、いつものおしゃべりではなくて、ちゃんと対話になった。

(いつもの会話はこんなイメージ。「こどもが最近こんなんで困ってるんだよ。」「あるあるーうちもだよ。」)(「パパが最近こんなんで、すっごく腹たって。」「ほんと、わかってないよねー。」)

対話ってなんだろう。
対話は、話が流れていかず、一つ一つキャッチして、投げ返す感じ。
普段の会話より、哲学カフェはゆっくり考えることを許されている感じがする。

そして、会話が対話になったのは、ファシリーテーターさんの質問のおかげだったと思う。

その時のテーマは
『ママは怒っちゃいけないってホント?』

話の詳しい流れは覚えていないのだけど、
途中で「褒める・承認する」という話題になった。

「誰に認められたいのかな?誰に承認されたいのかな?」

ファシリテーターさんからその質問が投げかけられて、みんなが考えだした。
もともとの質問は、「子どもは誰に認められたいと思っているか。」
と言う意図だったように思う。
だけど、この質問は私の本当の気持ちに気付けた質問だった。

「私はパートナーに認められたいんだ」

質問の答えを探して、想いが言葉になった。
毎日の子育ては、誰かに褒められたいからしてるわけじゃない。だけど、子育てをパートナーと共有したい。今日はこんなことがあった、こんなことに困ってこうした、とか。愚痴を言いたいわけではなくて。私が今日一日どんなことをして、何を感じたかを、ただただありのまま認めてほしい。そんな気持ちに気付いた。

当時は「ちゃんと育てなくちゃ」という思いもあって苦しかった。(その「ちゃんと」がなにかもわかっていなかった。)子育てには「正解」があると思っていて、「社会的に批難されないために」がんばっていた。

「子どもを感情的に怒ってはだめ。」「子どもに善悪を教えたり、社会的にちゃんとした子になるように、しっかりしつけなきゃ。」当時は強くそう思っていて、この時のテーマは「ママは怒っちゃいけないってホント?」になった記憶がある。

私だけの「普通」や、「社会的にこれが正解」を頑固に持っていて、当時は育児をしていて苦しかったのだけど、哲学対話はこの苦しさにとても有効だった。
いろんな人の価値観、考え方、それぞれの育児、パートナーシップが聞けた。
いろんな考えを聞くことで、自分の考えに気づいたり、当たり前だと思っていた前提に、それははたして本当なのかな?と考えることもできた。

私は哲学カフェの中の発言から、最近の出来事をどっぷり振り返ったり、自分の考えをはじめて対話に戻ってこれない節がある。(今回の質問も、子どもが誰に認められたいか、なのに、自分が誰に認められたいか、にすり替わっている。)

そんな中、ファシリテーターさん・進行役の方は、暗い迷路の途中のたいまつの灯りを持って、迷路全体の地図を持ってくれている。時折、質問をしながら、対話の流れ、その全体を俯瞰してくれ、ゆるりと舵をとってくれる。

今も尊敬してやまない、その方たちの投げかける質問が、ほんとうに大好き。
(進行役・ファシリテーターからだけでなく、もちろん、参加者からも、そういった質問は出てくる。)

あれから数年。私もそんな質問ができるようになってきただろうか。
自分の思考から戻って来れないのではなく、目の前の人とちゃんと対話ができるようになっただろうか。

(2021.6 加筆修正)


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