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人生60年。あと継ぎ・3代目がイヤだったけど、着物大好きになるまでの話。

改めまして、茨木國夫(いばらき くにお)です!

ボクは昭和36年6月生まれ。「いばらき くにお」と申します。
姉と弟の3人兄弟、長男です。
ゆえに、「着物屋」「3代目」「後継ぎ」という言葉に、異常なほどのアレルギーがありました。

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祖父母が、大正5年に「いばらき京染店」を創業しました。
皆さまに支えられ、今年で創業106年を迎えることができます。
創業者は、祖父。下の写真は、昭和45年頃だそうです。

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家業が着物屋なので、着物を目にする機会は日常の暮らしの中にあふれていました。
10歳の頃から、着物の「湯通し」「洗張り」を手伝わされていました。
ゆえに、いろんな着物を見聞きして、早や50年が経つことになります。

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       上:2代目の親父。昭和50年頃の店内の風景。
       中:自宅の作業場。着物に糊つけしている所。
       下:「洗張り」後に、着物を干している亡母。



小・中・高校と「野球部」。大学では一転して「書道部」。パチンコ・麻雀・ナンパが趣味。お洒落な洋服店などでバイト三昧の大学生活でした。年に数回ある「着物の展示会」の時は、片付け・荷物運びなど、主に力仕事を手伝って、お小遣いをせびっていました。 

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地元の大学を卒業後、証券会社に勤務しました。
しかし半年して、後を継ぐことを、エイッと決意しました。
大阪空港近くの呉服店に2年間住込みし、下働きの日々。一人になりたくて、「西国三十三所巡り」をしました。

24歳で家業を継ぎ、27歳で結婚。カミさんの「十二単衣」には、「うおー-」とため息が。僕の「衣冠束帯」には、笑いが起きました。

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一男一女に恵まれました。
普段は、なるべく「作務衣/さむえ」を着て仕事、左手にはロレックスの白金時計。郷ひろみと同じ時計で嬉しかったことを思い出します。
着物は、展示会の時に着る程度。やはり、洋服大好き人間でした!


やってしまった「きもの宣言?」

平成5年、32歳の時に「一生きものしか着ない」という「きもの宣言」をしました。
ええかっこしーなので、「『着物文化伝承家』として、着物を守り育むため!」などと言っていました。本心は、着物を着る人が激減し、将来がとても怖かったからとった行動です。

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ボクは、すぐムカついたり、イヤなことから逃げたり、ごまかしたりと、一つのことが長続きしない性格。しかし、この「きもの宣言」だけは、今なお継続中です。
以来、昼夜を問わず毎日着物生活を29年」を続けています。

「きもの宣言」をしたことで、人生が激変しました。目立ちすぎるので、外出さえイヤになったこともありました。
一番良かったことは、着物が身近にあり、着心地の良し悪しが自然にわかるようになってきたことです。また、お茶・お能などの和文化が大好きになったのも、大きな大きな副産物でした。

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平成21年に着物人生の歩みを「きもの宣言」という一冊の本にしました。
今、アマゾンでは、中古で販売されている模様です。

      日本経済新聞のレビュー記事など、追記予定。

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カモネギの一年間💦

これまで、本当にいろんな着物を着てみました。木綿・麻・絹・ウール・ポリエステルなどなど…。使ったお金は、新築一軒分。まさに、着心地を肌で感じる30年と言っても過言ではありません。

と言いつつも、実は宣言したての一年間は、何を着ていいのか本当に分かりませんでした。ピカピカの大きなランドセルを背負って、黄色いブカブカの帽子をかぶっているような状態です。


頼りになるのが、京都の問屋さんです!
問屋さんが、「夏には、サマーウールが良い!」とか、「夏の葬儀の際には絽の紋付が必要。」とか、「普段に着るなら紬の安いのも必要!」。おまけに、「これはお得だから、一緒に!」とおっしゃいます。

獲物がまんまとやって来ることを「カモネギ 」などと言いますが、まさに「カモネギ」こそがボクそのものでした。本当に言われるがまま。    洋服を一枚たりとも無くし、タンスの中を空っぽにしたので、寂しくて衝動買いをし続けたのです。

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言われた着物を着てみた感想

・「サマーウール、首回りがチカチカして着れません。」
・「絽の紋付は、30年で一度も袖を通してません。」
・「紬の安いものは、一年で膝が浮いて処分しました。」
・「お得な商品は、、、、。」

元来の買い物好きだから、たまったものではありません。
洋服を処分したのち、まさか、着物を処分する日がくるなんて、思ってもいませんでした。

着物生活29年で気づいた「着心地」

数年後、仕入先も「総合問屋」から「専門問屋」へと移行していきます。その中で出会った問屋さんの方から、こう勧められました。
「あんたは、まだ若いから、結城紬は『高機(タカハタ)』からでええでー。」と。

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その高機の結城紬は、5回「洗張り」をしていますが、『地機(ジバタ)』とは着心地が全然違います。重たくてゴワゴワした感じ。極端に言えば、身体から離れようとする着物だったのです。自分でもコノ感覚に、びっくりしています。


そこで、出た答え・学びがコレです。
「自分で着物を着ないのに、人に良いとは言えない!ボクは、着物を着ている実体験を元に、お話しよう!」と。

「着物の良し悪し」は、五感の中でも大事な「触感」。つまり「触れる」という行為こそが、ボクを育んでくれていたのです。
「本当に着心地の良い着物を!」という思いは、年々強くなってきています。いや、この着心地こそが「基本のキ」であり、人間で言ったら心臓のような大切ものでもあると発見したのです。

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「着物職人を守りたい!」という思い

ボクは、好奇心が人一倍あるかと思います。子どもが、そのまんま大人になったような感じでしょうか。
前のめりになるような作品に出合うと、仕入先さんのお話だけではなく、「どんな人が、どんな思いで作られたのだろう?」と、興味が湧いてきます。

横山俊一郎さん

その興味こそが、ボクの原動力です。
特に、「室町の加納織物」さんという、織物の専門問屋さんとお付き合いさせていただくようになると、ボクのアドレナリンがでまくりになりました。


そこで、いろんな問屋さんに、それぞれの生産地に出向いて、染・織を見聞きする機会を作ってもらいました。「お会いしてみたい染織家さん」を依頼して、半年から一年後には現実化していただきました。

茨城県の「本場結城紬」を訪れたのは、トータル5回。2回目に訪れた時は、3泊4日で、機織り機にのったりしました。経糸を左足で引いたりするので、高校時代にうさぎ跳びをやらされて歩けなかったことを思い出しました。「本場結城紬」と「結城紬風」の違いも明確に掴みました。回を重ねるたびに、その仕事ぶりに魅了されていきます。

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「奄美の本場大島紬」は、カミさんとスタッフも同行しました。「加納織物専属」と書かれていた看板を見た時の衝撃は、昨日のことのように思い出されます。「大島紬は、二度織る」の意味も、実際に目にすることで理解が深まりました。「泥染め体験」も面白かったです。

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京都在住・人間国宝の「喜多川俵二」氏、東京都・八丈島の「故・菊池洋守」氏、長野県の「横山俊一郎」氏、群馬県の「芝崎重一」氏、青森の裂織、島根県や徳島県の「藍染」などなど、現地におもむき、その仕事ぶりを拝見させていただきました。

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「いずれアヤメかカキツバタ」そのこだわりは、半端ありません。「実直」「寡黙」「孤高」という言葉がぴったりの染織家ばかりです。
なんちゃって人生のボクとは、生き方が大違い。毎日、コツコツ、コツコツ。一途に一本道です。カッコ良いです!

見た目は同じ着物でも製造工程の違いにより、出来栄えというか、「着物の特徴」が異なることも学びなました。目からウロコです。
そうやって、作り手の思いや、仕事へのこだわりをお聴きするたびに、「着物の職人さんを守りたい!」という思いが強くなりました。


イッピン着物❣≒私たちが愛してやまない着物

私たちは「着物の職人さんを守り、人様や社会のお役に立ちます。」という理念を掲げています。この思いのもと、「本当に素晴らしい着物を未来の子どもたちへ残していきたい。」と考えています。

これから幕開けする新時代に向けて、そんな思いをカタチにするために、
この上もなくすぐれた着物・私たちが愛してやまない着物を、これからnoteやYouTubeを通してお伝えしていければと思っています。

人生60年。着物屋の後継ぎがイヤだったけど、着物大好きなりました。
これから、「イッピン着物」をシリーズ化して紹介していきますので、着物通の方も、楽しみにしていてください。

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最後まで、読んでくださって本当にありがとうございました。
他のnoteも、ぜひ見てください。

きものサロン和の國 代表/茨木國夫 090-3600-9495


追伸:
目指せ、渋沢栄一!!
僕の理想とする渋沢氏の名言の一つに、
「優れたものの魂を真似よ」とあります。
渋沢栄一の魂を真似、
そして、
染織家の魂に一歩でも近づきたく存じます。




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