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「落語」が教えてくれたこと。

予定通り東京へ

緊急事態宣言が出ている中、考慮を小脇に東京へ出向いた。
半年以上前から、知人の新築パーティに参加表明をしていたからだ。
こんな時節ゆえに、キャンセルするのも一案だった。
しかし、小さな約束を守った副産物は大きかった!
なんと、僕が落語を好きな理由」がはっきりと見えたのである。

7日からの「還暦富士登山」は、想定外の初冠雪により急遽中止。
新築パーティが11日なので、それに合わせて再度調整しようかとも思った。
しかし、デスクワークはどこでも出来るし、毎日?落語も聞ける。
予定通り7日上京。都内に着いた後、5泊6日の宿を決めた。

次に、都内で行われる「落語」「美術展」「能楽」「歌舞伎」などをチェック。今回は、今一番興味がある「落語三昧」の日々と決めた。
それを最優先し、知人や娘に会う段取りをした。

外は雨。まさに「御山洗/おやまあらい」だ。御山洗とは、富士山の閉山の頃に降る雨のことと記されている。この雨は、登山期中の不浄を、洗い清めるものだそう。数年前に見つけた美しい言葉、このタイミングで使えて嬉しい。おかげさまで自分の心も浄化し、次へステップできそうだ。

落語尽くしの日々

7日(火):到着した夜は、江戸川区総合文化センター大ホールで「江戸川落語会~一之輔たっぷりの会~」が催されている。出演者は、お目当ての「春風亭一之輔」さん、パワフルな「桂宮治」さん、そして、「春風亭柳枝」さんだ。一之輔さんの演目は「ガマの油」「不動坊」。枕から落語へと流れるような口調に唸った。

8日(水):お昼から上野にある「上野広小路亭」の定席。ウクレレ漫談の「ピロキ」が実はお目当て。笑福亭和光さん、特にトリの三遊亭遊吉さんの造詣の深い古典落語に唸った。あまりにも流ちょうな話術に演目を見るのを忘れた。僕も歴史が好きだが、知識の量が半端なかった。

9日(木):落語鑑賞はお休み。
知人の会社へ挨拶に行ったり、旧友に会ったりした。論語の一節に「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや」とある。尋ねたのは僕だが、本当に楽しかった。
空いた時間は、パツパツとデスクワークの一日。

10日(金):お昼には都内に住む娘に還暦プレゼントをしてもらった。
「娘からの極上還暦プレゼント」    
 ⇒https://note.com/kimono923/n/n2dc3285156f2
午後7時~深川江戸資料館 小劇場にて「古今亭〇治独演会」。創作落語で、言葉も早く動きも激しい。一席だけ聞いて秋風に吹かれた。

11日(土):湘南モノレールを乗り継ぎ、鎌倉にて知人の新築パーティ。モノが視線に入らない美麗な住まい。友と再会し、美味しい食べ物、ワインなどに舌鼓。しかし、午後6時から落語があるのでお酒は控えめにする。
「BSフジpresentsプライム落語in横浜(夜公演)」 場所は、横浜の関内・大ホールなので好都合。皇室ネタで大笑いした「三遊亭白鳥」さん、そして「桂雀々」さん。締めは「柳家三三」さんが聴かせてくれた。

しかし、微妙にマイクのエコーが効きすぎて、早口の言葉を理解できない。カラオケボックスのようなエコーではないものの、微妙にエコーがあると音を拾いにくいことを発見。リハは、出演する落語家が早口かつ大きな声でやってないだろうから致し方ない。創作落語は、動きも激しく言葉も早くなるから致し方ない。やはり落語は、エコーゼロが良い。極上は、やっぱり生の声だ。

12日(日):東京最終日。「第2回立川志の輔一門・弟子ダケ寄席」に唸った。場所は、芸大はないのに学芸大学駅の「千本桜ホール」。ホール名がカッコいい。出演は、「立川志の八 」「 立川志の春 」「立川志のぽん」「立川志の彦 」「立川ういん」。ういんさんの紋付を着ての口上は歌舞伎さながら。それを落語風だからより面白い。紋付姿のご三人には、背筋が伸びた。

立川一門だけの落語を聴いたのは初めてで、しっかりと古典をやっている。「茶の湯」の「向こう岸まで、泡をふーとやって。」には笑った。あの小さな茶碗の中に向こう岸があるのだ。茶道をやっているので、笑う場所もたくさんだ。「不動坊」は今回二回目。志の八さんも流石だ。

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古典落語で、感性を豊かにしたい。

その中でも、古典落語には大きく分けて、笑えるもの(滑稽話)と、涙するもの(人情モノ)がある。涙するものの中で僕が好きなのは、「芝浜」と、「浜野矩随/はまののりゆき」別名「腰元掘り」だ。
余談だが、都内では12月に鈴本演芸場にて「芝浜」と「柳田格之進」を日替わりでやっているのには驚いた。

僕は、5年程前までNPOきもの普及協会という会の代表理事をやっていた。その例会の一つで「なんちゃって・芝浜」を演じた。ストーリーを知っている方がドキドキなさっている。冗談にもならないが、高座にあがったのはこの一度だ。今なら、人前で「芝浜」をやろうなんて1mmも思わない!


数年前のことだが、ある落語家が「芝浜」を演じている時のことだ。しーんとして聞き入っているその空気感が怖かったのか、場が温まってないと感じたのだろうか。最後のオチの前に、なんと小話が入ったのである。
正直「えっ」と思ったが、それが生の落語。終焉後、「あれ何?」「あんなのあったけ?」などの声を耳にした。
落語の素晴らしさと噺家の怖さを知った。これは僕の勝手な解釈かもしれない。しかし、会場を一つにしていく主客一体の空気感は本当に素晴らしかった。

枕で笑わせ、古典でうならせる!

一年以上前だろうか、千葉・君津で大好きだった小三治さんの落語を聴いた。僕は10年程前に「桂小三治」さんの芝浜で感動し、落語ファンになった一人だ。しかし、その時は歌を歌ったりされながら、なんと枕だけで終わった。僕は人生の甘い酸いを経験した達人の話芸を堪能したかった。無念だった。
僕の地元は、熊本。地方だから致し方ないが、地元・熊本に来て、枕だけで終わる落語家や、古典で笑いを取る方が多い。人情モノなど地方ではほとんどかけてくれない。

一方、こちらは一昨年のことだが「立川談春」さんの落語には、笑いあり人情モノありで唸った。時間を気にせず三席。本当に落語がお好きなんだと聞いてて思った。もしかすると、本当に自分が聴かせたい落語の聖域のようなものがあるのかもしれない。

僕個人的には、歌舞伎の「坂東玉三郎」さんと「古今亭菊之丞」さんが同じ空気感を持っていると感じたことがあった。目からの美麗さ、耳から入る音色の美しさは別格である。ふとそう思った。ぐぐったら、菊之丞さんのことを「日本舞踊で培った美しい所作の高座姿」と記されていた。納得した!

昨今、なかなか、本当に琴線を揺るがすような落語を聴かせてくれる噺家が少なくなっている気がする。しーーんとした間にも耐えられないのかもしれない。いや、それよりも、単純に「落語≒笑いたい」という構図が出来上がっているのかもしれない。時代背景もあるかもしれないが、大衆はそれを求めているのだろう。

僕の理想とする落語とは?

5泊6日の中で、5つの場所で20名程の落語を聴かせてもらって見えてきたことがある。ボクは「古典落語」が大好きだ。その中でも特に人情モノが大好きということである。理由は、自分の持っている知性や教養によって笑いが変わるからである。歴史も分かり造詣が深くなればなるほど、古典落語がより面白くなってくる。つまり、合わせ鏡のように僕自身がどんどん豊かになってくるのである。感受性が豊かになり、美意識が高まり、器も大きくなっていったらどんなに素敵だろう。

「枕でたくさん笑わせて、落語で人の心を暖める」そんな本筋の落語を聴きたいし、微力ながら本筋の噺家を応援していきたいと強く思った。
僕は、「ユーモアを交えながら、人の心を温めるような人間になりたい!」と思って、落語を聴いていた自分を発見した。それは、幼少の頃の家庭環境にあるとも気づいた。(これは、また別の機会に。)
普段の会話の中に、相手を豊かなジョークで楽しませたり、間を作って会話を、何と素敵なことだろう。しっかりと受け取り、相手の未来を輝かせることができたら、もう何も言うことはない。

会話によって、人は磨かれ、すべてのモノを創り出していく。
世界に誇る日本の話芸・落語という文化を、日本の民族衣装である着物同様、大事に大事にしていきたい。



追伸:
お目当ての役者を見に行く歌舞伎のように、お目当ての落語家を着物を着飾って見に行くような新しい文化が誕生する可能性も無限大だ。











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