崎門学研究会(『維新と興亜』合同編集)

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最近の記事

真木和泉守『大夢記』(安政五年)

既にして上赫怒す。遽(にわか)に諸大臣を召して曰く。これ忍ぶべけんや。孰れか忍ぶべからざらんや。朕云云を欲す。大臣皆曰く。謹んで諾すと。乃ち史臣を召して詔を草す。密かに使を発しこれを伝えしむ。その詔に曰く。朕眇眇の躬を以て忝くもその業を継ぐ。夙夜勉励して祖宗を辱むを恐る。而して即位の初め。洋虜の東海を侵凌するを聞く。乃ち詔を幕府に下しこれを備えと為す。然して有司特に恬凞に務め以て意を為さず。遂に癸丑(嘉永六年)の禍を馴致す。爾来舶来漸く多し。侮謾漸く甚し。ここに於いて天地鬼神

    • 崎門・大アジア主要先哲の命日及び生没年

      浅見絅斎1月8日1652-1712 竹内式部1月24日1712-1768 若林強斎2月15日1679-1732 金玉均3月28日1851-1894 有馬新七5月21日1825-1862 影山正治5月25日1910-1979 頭山満5月27日1855-1944 楠正成7月4日1336 内田良平7月26日1874-1937 谷秦山7月27日1663-1718 アルテミオ・リカルテ7月31日1866-1945 高山彦九郎8月4日1747-1793 チャンドラ・ボース8月18日189

      • 垂加霊社招祷祝詞

        後学若林進居諸生を率いて掛けまくも畏き霊神の御前に恐み恐みも申(し)給くと申す(。)爰に享保九年甲辰の春諸生と相謀り多賀宮の祀官川瀬元憲が家の庭中に於て清地を擇び新たに小祠を起立て今の日今の辰霊鏡を以て御正体と安置し奉る(。)天長の地久(し)く動き給(う)事無(く)して鎮座と称辞竟(に)奉くと申す。夫(れ)吾国中葉西羗異教を伝(う)より以来天下滔々皆其(の)毒流に溺れて上古神明の道日衰月廃殆む(?)と将に滅熄に至れり(。)時に幸に翁出(で)給はる有て舎人親王の正統を千載の後に

        • 真木和泉守略年表

          ・文化十年(1813)、久留米水天宮神主真木施臣通称左門の長男として生まれた。幼名を湊と称した。 ・文政六年(1823)、十一歳の時に父施臣が病没し家督を継いでからは名を保臣と改め紫灘と号した。 ・天保三年(1832)、京都において神祇官領吉田氏より大宮司の状を受け、従五位下和泉守に叙任された。真木和泉守と称するのはこのためである。 ・弘化元年(1844)、三十二歳の時水戸に遊学して会沢正志斉と会見し水戸学の影響を受ける。久留米に戻ると、久留米水戸学派である天保学派の領袖とな

          第一回【浦安日本塾】吉田松陰先生の思想と行動

          山鹿流兵学者から「国体」への目覚めまで 吉田松陰先生は尊皇攘夷の思想家であり教育者です。先生の名は、教科書にも出ており、司馬遼太郎の小説『世に棲む人々』や大河ドラマ『花燃ゆ』でも主題になりましたので有名ですが、それらは先生の外形的・表層的な足跡を捉えただけであり、先生の思想の内奥に迫るものではありません。私は学者ではないので先生が、いつどこで何をしたと云った、外形上の知識には興味がありません。先生の思想、精神を明らかにし、これを継承することが肝心だと思っています。 先生は

          第一回【浦安日本塾】吉田松陰先生の思想と行動

          【史料】真木和泉守『楠子論』

          あゝ、楠子(なんし)の忠義、けだし天下一人なり。孤独を以て二十万の兵を破り、以て勤王の倡(しょう、さきがけ、先達)を為し、寡軍(わずかの軍勢)を以て二十倍の衆を挫(くじ)き、以て臣たるの節を竭(つく)す。則ち与(あずか)らず。言聴かれざるに及んで、児(じ)を呼んで後事を託す。その意に謂(おも)えらく、訣別の言(別れの時の言葉)は、これを路人(往来の人、転じて利害関係のない人をいう)に施すも、また能(よ)く肝(きも)に銘ず。児(じ)稚少なりといえども、必ずこれを記(き)せん。而