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真木和泉守『大夢記』(安政五年)

既にして上赫怒す。遽(にわか)に諸大臣を召して曰く。これ忍ぶべけんや。孰れか忍ぶべからざらんや。朕云云を欲す。大臣皆曰く。謹んで諾すと。乃ち史臣を召して詔を草す。密かに使を発しこれを伝えしむ。その詔に曰く。朕眇眇の躬を以て忝くもその業を継ぐ。夙夜勉励して祖宗を辱むを恐る。而して即位の初め。洋虜の東海を侵凌するを聞く。乃ち詔を幕府に下しこれを備えと為す。然して有司特に恬凞に務め以て意を為さず。遂に癸丑(嘉永六年)の禍を馴致す。爾来舶来漸く多し。侮謾漸く甚し。ここに於いて天地鬼神、始めて警戒を降す。地振・海溢・彗星・災傷。概ね虚歳無し。而して有司漠然として悟らず。丁巳 (安政四年)の冬に至る。虜遂に請ふべからざるものを請ふ。其の意蓋し知るべし。朕乃ち有司某を徴し其の不可なるを諭す。丁寧にこれを罄す。而して某還りて則ち詔に背き虜を許す。許して後にこれを報ず。朕其の虜を怖れて詔を軽んずるを怒るといえども、寛裕にしてこれを容る。また某博くその宗藩族・天下侯伯に議せしむ。然して宗藩親族かつて不可なるを陳ずる者既にして皆これを囚ふ。且つその主を立つるに最幼を擇ぶ。今又云云。その為す所を縦にするがごとし。則ち徒らにその府の事を壊さず、必ず天下の事を壊す。則ち朕祖宗の責を如何せんや。朕東海を巡狩し以てその罪を問わんと欲するなり。汝ら宜しく汝兵甲を率い行に従うべき也。而して兵多きを欲せず。特に器械に精しきを欲す。亦観美なき也。某月を以て宜しく皆京師に聚り以て指揮を待つべし。勢 (伊勢)・備(備前)・因(因幡)・長(長州)・土(土佐)各一使、東西肥(肥前・肥後)・南北筑(筑前・筑後)・薩 (薩摩)二使これを兼ぬ。又使を加(加賀)に遣わしむ。命じて支藩・米澤・信(信濃)の小侯を率ひ車駕を臼井(千葉県佐倉市)に迓 (むか)ふ。詔書前の如し。又仙(仙台藩)に命じ秋(秋田藩)・二松(二本松藩)・馬(群馬郡高崎藩)・春(三春藩)を率ふ。車駕を常国(常陸)に迓える。詔書亦前の如し。諸侯これ京師に聚まる也。上面(むか)ひて聖意を誥(つ)げ乃ち皇子を以て監國と為す。某公・某卿を以てこれを佐 (たす)く。薩(薩摩)・北筑(筑前)これを衛る。乃ち勢(伊勢)を以て先隊第一と為し備これに次ぎ因これに次ぐ。長を牙兵(親兵)と為し土則ち左。米則ち右。西肥を後隊と為し、東肥を殿と爲す。部署既に定む。次第に途に上る。先ず神宮(伊勢神宮)を拝し事を告ぐ。熱田(熱田神宮)に至り寶剣を奉じ而して遂に行く。函山(箱根)の嶺に駐蹕し権現の祠(箱根山東福寺)を以て行在と為す。先隊小田原・湯基(湯本)に陣す。左右後隊山中・御島(三島市山中城)に陣す。然る後使いを遣わし大宰 (将軍家茂)・宰夫(和宮)・當途(路)有司を徴 (め)し至る。諸大臣厳粛に侍座す。従行の侯伯亦列す。大宰を引き庭に坐す。宰夫雁行して後に在り。上親しく其の逆悪国を売るを譲む(責める)。大臣次を以て譴責す。而して後、罪を山中(山中城)に待つ。左右後隊の兵これを護る。これに先んじて在府諸侯に勅し厳しく両城府(江戸城・大坂城)の士夫を衛り、各その官署を守り相往来するを得ざらしむ。又市吏に勅して群集喧嘩を禁ず。乃ち幼主(家茂)を徴して甲駿(甲斐・駿河)の地に封ず。その祖祭を主とせしむ。其の藩の兵これに屬す。別して親王を以て安東大将軍と為し大城におり某藩の兵これに隷す。諸侯才者を以て監軍と為しこれに副ふ。河越(川越藩)を金澤(金沢藩)に移し十萬石を増す。二松 (二本松藩)を富津(上総)に移し十五萬石を増す。共に海口を扼す。乃ち死を大宰以下に賜ふ。遂に大城(江戸城)に幸(行幸)す。大いに更始の令を布告す。侯伯をして家を攜(たずさ)え、国に就き以て後命を待たしむ。ここに十日ばかり駐蹕す。乃ち尾(尾張)・水(水戸)・越 (越前)に在る囚者を出す。皆その故(もと)に復す。以て牙兵と為す。従行遂に北海に沿い仙城に至る。転じて北越 (越後)を巡る。加 (加賀)・越 (越前)・若 (若狭)・丹(丹波)を歴 (めぐ)る。直ちに浪華 (大坂城)に入り駐す。ここに於いて大いに黜陟を行い、しかる後奢を禁じ倹を尚ぶ。租を薄くし役を減じ学を立て才を養ふ。国富み兵強し。信を布き化を厚くす。都を遷し畿を定む。封を建て邑を分つ。礼を興し楽を作す。次第にしてこれを施す。戊午(安政五年)十月十三日夜これを得。

参考)

『真木和泉守』『真木和泉守遺文』

https://sites.google.com/site/2010bakumatu/shi-liao51-zhen-mu-he-quan-zhe-da-meng-ji


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