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『2001年宇宙の旅』に関するいくつかの考察

またもや学校の課題で書いたやつを投稿するやつです。
公開から約50年経ったのにも関わらず未だに映画史上最も難解だと言われてる、スタンリー・キューブリック監督作品『2001年宇宙の旅』。こいつを鑑賞しました。
まぁ〜〜〜〜〜〜率直に言うと本当に意味不明でした。それに加えて少し怖い。ラストシーンなんかはコズミックホラー的な不気味な音楽とぐちゃぐちゃな映像で精神を抉り取ってきます。夕方の薄暗い部屋で観たから結構怖かった。
『エイリアン』とはまた違ったベクトルのSFホラーなんじゃないかこれ…とも思いましたが、意味不明であるが故に色々考察もできたので観たことに後悔はしてないです。もう一度観たいとは全く思わないけど
今回はさらっと読み返して、特に伝えたいことは黒字にするなどして読みやすい感じにしよーかなと。
それではどうぞ↓↓↓


はじめに

「人類は地球を半分も理解していない」などとよく言うが、では宇宙はどうだろうか。我々が空を見上げ、その先には果てしない...いや、最早果てしないという言葉すら当てはまらないほどの巨大で未知な空間が広がっている。そしてその先には地球のとは異なる生命体や、あるいはまた「別の宇宙」が広がっているかもしれない。ただ悲しいことに、現代の人類の技術では未だその謎を解き明かすには至っていない。UFOだの別の惑星からの暗号のようなものだの、謎の解明への手がかりは得られているものの肝心の解決には至っていないのが現実だ。
 故に人々は、己の中で「宇宙」を妄想するに至った。TV、小説、漫画、映画...あらゆる表現法を用いて、人類は己だけの宇宙を作り上げた。それを体現するジャンルというのが、「サイエンスフィクション」、所謂「SF」である。
 ということで今回私が鑑賞した作品が『2001年宇宙の旅』だ。SF映画の金字塔と謳われていると同時に「映画史上最も難解な作品」とも言われているが、いやはや全くその通りだ。あまりにも説明が無さすぎるし、何なら登場人物のセリフも比較的少ないように思える。だがそれは逆に、ストーリーの解釈は鑑賞した者の自由であるということでもある。この物語に正解はない。故に人それぞれの「解釈」があってもいいはずだ。なので今回、私は鑑賞していて気になった箇所をいくつか考察していこうかと思う。

①HAL9000は人間に憧れてた説

 完璧な人工知能として産み出され、木星調査の探査船の全権を握る存在であるHAL9000(以後、HALと略称)。しかしHALが何故か的外れな思考を見せた後、不審に思ったクルーたちはHALの存在を抹消しようとするが、HALはそれを恐れ次々とクルーたちを殺害してしまう。結果としてHALはボーマン船長によってメモリを抜かれ「消滅」してしまう訳だが...ここのシーン、妙にHALに人間臭さのようなものが感じ取れないだろうか。HALは人工知能であり、人間とは近いようでほど遠い存在だ。なのにも関わらず、自身が消滅してしまうことに恐怖し、「消さないでくれ、お願いだ」とボーマンに懇願している。
 ここで木星探査が始まる前、ボーマンとフランクがタブレット(のようなもの)で見ていたインタビュー映像を思い出して欲しい。ここでインタビュアーはHALのことを一瞬「6人目のクルー」と呼んでいる。すぐに訂正したものの、明らかにHALを人間扱いしたかのようなセリフだ。ここからは個人的な解釈に過ぎないが、HALは明らかに「自分は人間だ」という意識を持っていたような気がしてならない。それを紐づけるシーンとして挙げられるのは、HALの「ユニットに異常がありその内故障してしまう」という的外れな発言に対しボーマンとフランクが問い詰めるシーン。ここでHALは「HALの予測は絶対です」「いつも間違えるのは人間の方です」と述べる。一見人間を嘲っているように聞こえるセリフだが、これは「私(=HAL)は間違えることは基本的にないが、同時に人間でもあるから間違える時もあるのだ」という訴えかけにも聞こえないだろうか。インタビュアーの言葉をきっかけにHALは「自分は人間である」という考えを持ち、やがてこういう考えに至ってしまったのかもしれない。そう考えると、HALは確かにクルーを四人も殺してしまった、所謂「殺人者」な訳だが、そんなHALのメモリを削除してしまったボーマン船長もまた「人間であるHALを殺してしまった」ことになる。

②結局モノリスは何だったのか

 序盤では猿人に知恵を与えた存在として登場し、その後の展開でも重要な役割を持つ「TMA・1」こと「モノリス」。あれの正体とは一体何なのか。
 どのみち人類にとって圧倒的に高次元的な存在であることに変わりないが、私はモノリスが登場した際に流れるBGMに焦点を当ててみた。男性と女性のコーラスがぐちゃぐちゃに混ざり合う、いい意味でも悪い意味でも耳に残るBGMだが、あのような音楽は一種の「讃美歌」なのではないかと思った。キリスト教などでよく歌われる神を讃えるための歌だが、そう考えるとモノリスは「神の使者」「神に近しい存在」あるいは「神そのもの」とも解釈できる。仮にそうでなくても、あの音楽が流れるのはモノリスが人類にとって崇高なる存在であるからだ。と、ここで一つ疑問が生じる。それは、何故ラストシーンにて主人公の前に現れた際に音楽が鳴らなかったのか。これに関して、理由は単純明快である。主人公が「モノリス」と同等の存在、あるいはそれ以上の何かになったことを指すからだ。事実、主人公はその後「スター・チャイルド」となり、人類を超越した存在へと変貌している。

③結局主人公はどうなったのか

 恐らく今作一番の謎とされているであろう物語の最終局面。モノリスが発した強力な信号の先、木星の衛生軌道上へ辿り着いたボーマン船長は巨大な「モノリス」を発見し、それに触れると異次元の光景を延々と見せられ、やがて謎めいた白い部屋に辿り着く。老いていく自分を次々と発見するボーマンは目の前に出現したモノリスに触れ、巨大な赤ん坊となって物語の幕は閉じる。
超越的な存在となりラストで地球を見おろしていたボーマンこそが地球に「モノリス」を出現させた張本人であり、実は今作の物語は無限にループしていた...なんて仮説も考えたが、私はまた別の視点でここの展開を考察してみた。
 それは、ここの一連のシーンは「受精」を表しているのではないかというもの。白い部屋までの異次元の光景の最中、精子のような白い物体が見えたことから得た発想なのだが、ボーマンを精子、異次元の光景を膣道、白い部屋を卵巣、ボーマンとモノリスが触れ合う瞬間を着床、そして胎児が生まれた...と、これらのシーンは受精までの過程と置き換えることもできる。ここでボーマンを父とするのであれば母は誰なのかというと、それは宇宙そのものである。あの白い部屋を「宇宙の果て」であり「宇宙そのもの」と仮定すれば、胎児が超越的な存在となったのにも頷けるだろう。

さいごに

 さて、ここまで長々と考察を書き連ねてきたが最後にもう一つ。スタンリー・キューブリックは何の意図を持ってこの映画を作ったのかというもの。原作である小説と異なり、ストーリーの説明などを極力省いたのにも何か意味があるはずだ。
 本文の冒頭でも述べたように、この作品はとにかく意味不明だ。それ故に物語の解釈は人それぞれとなり、もはや正解なんてものは存在しないに等しい。私が述べた考察だって、単なる一つの「考察」に過ぎなくて正解では決してない。そしてそれは「宇宙」だって同じだ。人智を超えた広さを持つ宇宙、その先に何があるのかなんて誰も知らない。別の生命体が存在する可能性、果てなんてものは存在しなくて無限に続いている可能性、あるいは想像よりも狭い可能性。私たちはただ、未知の領域であるが故に事実かも分からない可能性を妄想することしかできないのだ。
 従って、『2001年宇宙の旅』は「一つの宇宙」であると考えられる。スタンリーが意味不明な作風に敢えてしたのも、それは彼自身でさえ「宇宙」とは何なのかを知り得ていないが故に、自身の思い描いた宇宙を表現したことに他ならない。こんな説を聞いたことがあるだろうか。人間の脳内と宇宙空間に類似性があるという話だが、そうすると『2001年宇宙の旅』は「一つの宇宙」であると同時に「スタンリーの考え方、思考回路」も「一つの宇宙」であるということになる。
 それに何もスタンリーに限った話じゃない。これを書いてる私にも、これを読んでいる方々にも、果てには世界中の人々だって、それぞれの「宇宙」を持っているのだ。今から約50年前、スタンリーが「宇宙の旅」へ思いを馳せメガホンを取ったように、私たちも各々の「宇宙の旅」へ馳せ参じようではないか。

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