行動変容は多様であってほしい

困難な時こそ、そのひとの地が出るという。なんらかの危機に直面して、なにか具体的な行動に出るひと、なにかの理論をみつけて右往左往してみるひと、不安をだれかにぶつけてみるひと…ひとそれぞれである。けれど、こんな時こそゆったり構えることも、時に大切だと思う。

というのは、最近よく聞く言葉に〝行動変容〟があるのだが、これに日本人得意の同調圧力が加わると、なにか具体的な行動をしないとダメなんじゃないか説に悩まされることがあったからだ。一方で、おそらくある種の行動変容のひとつであろう、都会でのスーパーでの買い占め行動などを眺めていて、なんとばかばかしいことを…などと矮小化してみたりもしたこともあった。

じつはこの2つ、自分の場合、その根っこは同一であることに最近気がついた。そこにはなにかしらの不安があり、その不安から生まれるイライラを解消するために悩んでみたり、買い占めの行動に出たりするのではないか、と考えるようになったのだ。

いやいや。都会はもっと切迫していて、あなたは田舎に住んでいるからそんな緊張感が足りない発言をするのだ。そんな声が聞こえてきそうだが、たしかにそうした面はあるだろう。けれど、ここで分けて考えるべきは、〝ウィルスに感染すること〟と〝ウィルスに感染する可能性から生まれる不安(恐怖)〟は別物だ、ということである。どうもこのあたりがごっちゃになって、同調圧力的な〝行動変容〟が求められているような気がしてならない。そしてこの同調圧力には、妙な感染力があるから恐ろしい。例えば、電車で咳をしたら蹴られたなどのニュースをみたが、それは極端例のひとつとはいえ、そうした極端例の深層にあるいわくいいがたいものが世の中に広く感染しないことを切に願っている。

けれど、もとを正せばその感染力の源は、単にあの人がやっているから、この人が言っているからくらいのものでしかなかったりするのも事実である。だから、それがころんと変わると自分もころんと変わらざろうえなくなり、結果疲れてしまい、判断力や行動力がどんどん吸い取られてしまう…。そんな悪循環が起きていてもおかしくないような気がしている。

首相から緊急事態宣言がなされ、もはや長期戦が確実となった今、体力・知力・気力の温存もまた、行動変容のひとつとして努めてよいことだと思う。そこで提案したいのが、〝なにもしない〟ということである。もちろん、なにもしないというのは、好き勝手に振る舞うなんてことではなく、基本的なルールは守りながら、ぼーっとしてみるとか、だらだら寝るとか、例えばそういうことである。

でも、この〝ぼーっと〟とか〝寝る〟とかだって、じつはいろんなアイデアがわいたり、文字通り疲れがとれたり免疫力が上がったりと、それなりの意義があったりする。なにもしないといっても、これまでの人生のなかでその〝なに〟ものでもなかったことするということも、ある意味〝なにもしない〟の範疇に入るだろう。例えば、ふだんはしなかった清掃をしてみる、洗濯をしてみるなどであれば、パートナーだって喜び、一挙両得だろう。

なにかできない状況でむりやりなにかをしようとすると、疲れるものだ。例えば山でいえば、ヘンにネットで次に登る山について調べまわったり、動画をみたりなどせず、なにも考えず、あるいは山とはちがうことを考えながらぼーっと過ごすのも〝たまにはいい〟と思う。そこに思わぬ収穫があったり、仮になくても、妙に心をかき立てられることがないから、精神衛生上有意義だろう。もちろん〝なにもするな〟といいたいわけではない。なにかやりたければやればよい。ただ、それだけである。

簡単にいってしまったが、この〝なにもしない〟というのがじつは難しかったりするから話がややこしい。であれば、なにか行為をするのであれば、それが〝同調圧力〟にならぬよう配慮することが必要だろう。例えば、リア充的な記事など今は読む必要はないし、発信することすら不要である。その意味でいえば、この記事もある意味〝リア充〟である。けれど、もし今回のコロナ禍がなければ、こんなことを思うことも書くこともなかったわけだから、ひとつの〝行動変容〟としてご容赦願いたい。

くだくだと書き連ねてしまったが、長期戦となった以上、ようは体力・知力・気力の源泉確保、その兵站を維持するのが大切、ということである。そのためには、ひとそれぞれのやり方があるものだ、ということである。

日々淡々と過ごせることに、幸せを感じたい。

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