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「知らない」と思うから「知ろう」とする

普段の生活で「自分がわからないことって何だろう?」って考えることは少ないですよね?

僕たちは日常生活の中で、自分が理解していることと理解していないことの境界線にほとんど注意を払っていません。

テストの勉強をしているときには、「わからない」ことを明確に感じることがあります。それは、「分かる=正解」を見つける過程であるため、何がわからないかが明確になっています。

一方で、自分が理解したいと考えているわけではないことで、自分はわかっていないことについて想いを馳せることってなかなかないと思うんです。

今日の朝、掃除機を使いましたが、なぜこの掃除機が動くのか?どうやってゴミを吸い込んでいるのか?について僕は理解していません。掃除機の電源の入れ方がわかれば使えるし、それで部屋は綺麗になるんだから掃除機について詳しく理解することは必要ないでしょ、と考える間もなく掃除機を使っています。このように、直接的に問題解決に必要ではない知識について深く考えることは少ないかもしれません。

この文章を読んだ人は、「確かに掃除機の仕組みについて知らないなぁ」と感じたはずです。なんだったら、どうやって吸い込むようになっているのかを調べ始める人もいるかもしれません。
この「自分が知らないと思う」ことは、学びと発見の旅において非常に重要な第一歩だと思います。自分が何を知らないのかさえわからないという状態は、新しい発見や知識に出会う可能性を閉ざしてしまいます。

これはソクラテスの言う「無知の知」として有名ですので、考えたことのある人も多いかもしれません。

ある時、テレビで商店街の八百屋さんでは夕方になるとレモンが大量に売れるのだと放送していました。なんでだろう?と思うのと同時くらいで、時間帯によって八百屋さんの売れるものに違いがあるのか!という知っているようで考えたこともなかったことに出会えた瞬間、おもしろいなぁ!と感動しました。
ちなみに、このレモンが夕方に大量に売れるわけは、商店街の居酒屋がレモンサワーなどのお酒の準備のためにこぞって八百屋さんでレモンを購入していくことが理由だとそのテレビは教えてくれました。このときのテレビを見ての僕の中での驚きや喜びは、自分が知らなかったことさえ気づいていないことに気づくことから生まれます

僕たちは、知っていることよりも知らないことの方が遥かに多い世界に生きています。そして、その知らないことの中には、私たちがまだ気づいていない無限の可能性が隠されています。自分が何を知らないのか、そしてそれをどうやって知ることができるのかについて常に意識を向けることが、学び続ける原動力になります。自分は多くのことを知っていると考え眠り続けることがないように、これからも自分には知らないことがあると思うことで、知ろうと考える人でいたいと思います。

人間が自分が思っているよりも無知であることについて書かれている面白い本がありますのでこちらもおすすめです。


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