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雨上がりの空に
例えばわたしたちは雨上がりの夕日が息を飲むほど綺麗なことを知っている。続く困難もこの先にきっと、と踏ん張ることが出来てしまう。
転んでしまっても前を向いたし、見失いかけても止めなかった、こんなにボロボロになったのに、どうして雨は止まないんだろう。
―過程は認められないものだと思っている。
わたしの世界には昔から、沢山勉強したから点数が悪くても仕方ない、なんてことは無い。たくさん練習したから、本番で失敗してしまったけれど良かったね、なんてこと。
時々、そこが上手く噛み合わなくて、同じ舞台に立つ誰かと衝突することがある。わたしたちは自分たちの背景を知っているから、例えば何か失敗があっても、泣いて笑って作ったんだと胸を張れる。
ステージに上がる時、わたしの中だけでの最高にはなってはいないかと、すごくよく考える。準備は足りたか、コンディションはどうか、プロ・アマの問題ではなくて、誰かの時間を貰ってしまった以上、それがほかのことに割けたはずの時間より有意義なものではなければならないと、考えすぎなんてことは無いのだ、そこにお金が発生して、わたしの歌にあなたがお金と時間をくれたのだからと。
過程を認められない訳では無い。ただ結果以外は重要ではない場合が、生活の中には多々ある。疎かにしてはいけないところだと思う。
時々、この失敗を、今日までの練習に免じてなかったことにしてくれ、と願う夜はあるけれど、わたしの実力の全てなのだと落ち込んでしまえばいいのだ、次に活かすための何かに変わるのならば、とことん凹んでしまえばいいのだ。
雨上がりの夕日が見たくて、踏ん張った、転んでしまっても前を向いたし、見失いかけても止めなかった、こんなにボロボロになったのに、どうしても雨が止まないのは、きっとやり方を間違えていて、自分を少し過信していて、それに気づけないのが原因なのだ。
気づけないのが原因なのだ。
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