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人生、思ったとおりにはならないけど、やったとおりには、なる。

教育業界で話題になっている福岡女子商業高校。数年前は定員240人に対し、半分に満たない入学者希望者数だった私立高校だったが、2020年度に国公立大学への進学者数をゼロから20人に増やした。

2020年に国語の常任講師として赴任した柴山翔太先生の小論文指導によって、生徒たちの考える力が飛躍的に向上。学校推薦型選抜(旧推薦入試)によって、国公立大学の合格者20人を達成した。その実績を買われ、30歳の若さで校長に就任した。

先日、地元福岡のテレビ局で小論文指導の様子を取材した特集が放送された。

生徒たちが小論文対策として使っている小論文ノート。僕も取材を通じて生徒たちのノートを見せてもらったことがある。

ある生徒のノートの表紙に書かれていた言葉が印象的だった。

人生、思ったとおりにはならないけど、やったとおりには、なる。

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来月で45歳になる。きっと人生の半分は終えている。別に運命論者ではないけれど、自分が90歳まで生きるとは思っていない。技術やテクノロジーの発展で人間の寿命が延びる時代になれば話は変わるけど、現段階では人生の後半戦に差し掛かっているはずだ。

東京。思ったとおりの人生を歩みたくて、高校を卒業してからアルバイトで生計を立ててきた。バンドを組んでメジャーデビューを果たす。プロベーシストになる。自分のグルーヴを磨いてオーディンスをノリノリにする。

元々、友だちが欲しくて始めたベースギター。お笑いが好きで、中学で触ったコンピュータにちょっと興味があるくらいの、どこにでもいる東京の高校1年生。初恋は中学生のときに済ませたけど、告白はできないまま。高校生になって彼女ができて早く童貞を捨てたいなーなんて思っていた、女の子への興味があるけど、それを前面に出さない斜に構えていた東京の高校1年生。

夢中になった。はじめは弦を押さえるのすら痛くて、すぐにマメができて指先が硬くなったけど、バンドスコア(曲の演奏のやり方が書かれた本)に沿ってフレーズを弾き続けると、テンションがどんどん上がっていく。

ロックンロール。中学生の頃はCHAGE&ASKAや槇原敬之、小田和正といってJ-POPばかり聴いていた。両親が経営していた新聞販売店の従業員で、ESPの専門学校に通っていた新聞奨学生が「きみちゃん、そんなぬるい曲聴かんと、これ聴き」といって貸してくれたのが氷室京介。「へーかっこいい」と思ったけど、このときはBOOWYのボーカルだと知らずに聴いていた。僕の人生の神となる布袋寅泰のカッティングサウンドは、木村少年の耳には入っていなかった。

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1990年代、高校生を対象にしたバンドコンテストがあった。いわゆるバンド甲子園。決勝大会は横浜スタジアム。各地の予選を勝ち抜いた高校生バンドが自信たっぷりに演奏しているのを観客席から見ていた高校2年生。この舞台に立てればいいなと思った。練習はほぼ毎日していたし、ちょっと頑張ればいけるんじゃないと。

ただ、オリジナル曲じゃないといけなかった。当時、周りでオリジナル曲を作っているバンドキッズは周辺にいなかった。「誰かが作るのかなぁ」と完全に他人任せにしていたら、翌年の応募期間がとっくに過ぎているのに気づく。当時はコピーするのが好きだったから、作曲や作詞をしたいとは全く思わず。他責思考。

高校の卒業式。卒業式で校歌を歌いながら、何となく振り返った高校生活。ベースギターを始めていなければ、どんな高校生活になっていたか。ゾッとした。学力的にも、両親が経営不振で新聞販売店を手放してしまって経済的にも大学進学はムリだったので、都内の中小企業に就職して、それなりの暮らしをしていたかもしれない。

高校がある東京都足立区は千葉の木更津や東京の立川・八王子あたりと「地元の雰囲気」が似ている。ちょっとヤンキー臭がただよっていて、地元が好きなやんちゃ男女同士が結婚して、そのまま地元に定住するケースが多い。足立区を離れて20年以上経つけど、足立区という町はとっても好き。また竹ノ塚あたりで夜な夜な飲み明かしたい。

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23歳頃からサポートやヘルプメンバーとして、バンドを掛け持ちするケースに切り替えた。高校の同級生であるギタリストと組んだバンドが2年くらいで解散した。ギターと女性ボーカルがくっついちゃって、「うわ、バンド内でそれはダメだろ」「俺は抜ける!」と切れ気味で宣言したから。今となってはどうでもいい理由だけど、なんかそういうのが許せなかった。若いくせに頑固者だった。

2000年代に入って、ようやくインターネットを使い出した。自分でホームページを作ってみようと、ホームページ作成ソフトと画像作成ソフトを買って、ベーシストとしてのサイトを作った。レンタル掲示板も作り、相互リンク(懐かしい言葉)のバナーも互いのサイトに貼りあって、時には交流のあったベーシストのライブにも見に行った。

ドラムが見つからない。バンドマン人口を区分するとボーカル>>>>ギター>>>>>ベース>>ドラムになる。うまいドラマーとなると、自分のバンドを組みながらいくつのもバンドを掛け持ちしていて、いくつものバンドからラブコールを受けていた。ベーシストも似たようなもので、誘われたこともあったけど、「確かに演奏はうまいけど、なんかこいつ、ファッションでバンドやってねぇか?」みたいな連中が多かったので、基本的には断っていた。そこは割り切って引き受けても良かったなと、今では思う。

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無理だ。同世代の連中がどんどんメジャーデビューしていく。ハッキリ言って、今の自分の状態は「箸にも棒にもかからない」。

就職?バイト代は月25万円くらい。コンビニで求人雑誌を見ると、手取り18万円。無理だ。就職したくない。夢中になれること、探そう。2003年当時はちょっとした放送作家ブーム。売れっ子作家が発想法や企画の教科書などを出して2刷・3刷になっていた。

放送作家って、どうやったらなれるんだ?ググった。吉本興業のNSCに芸人以外に「構成作家コース」があった。マジか?応募願書を受け付けている。

当時は西大井駅近くにあったNSCの事務所。1〜2分ほどの面談は緊張したけど、後から聞いたらきちんと受け答えができる人なら誰でも合格するらしい。先日、現役NSC生とオンラインで話す機会があったけど、今の授業は基本的にオンラインでネタ見せのときに来校するらしい。ラッキィ池田先生のダンス授業、オンラインでやるのって想像つかねー。

NSCを卒業して、作家を募集していた事務所に滑り込み、ラッキーなことに新人時代からアルバイトをしなくていいほどの収入をもらった。テレビ局の報道現場の仕事は、面接時「家が新聞販売店なので、新聞はよく読んでます!」と元気よく答えた。それが決め手かはわからないけど、運良くテレビ局で働く自分になれた。

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テレビ局で働く自分にはなれたけど、売れっ子作家にはなれなかった。週5日1日8時間拘束の契約だったので、他局で日中にある会議に参加できない番組は候補リストから外れた。マネジメント担当の営業と年に数回、今後の木村について話し合ったけど、拘束がネックでなかなか番組が増えなかった。振り返ると、完全に事務所に任せっきりで、他に方法はいくらでもあった。

40歳を過ぎ、放送作家としてのキャリアも10年を超えた。同じくらい報道スタッフとしてのキャリアも積んだ。報道局内でいろいろあって、報道の仕事を離れた。同時に事務所も辞めた。ラジオ番組の作家は継続。ライターとの2軸で仕事をしようと思った。

この頃から、企業の広報が集まるコミュニティで勉強会に呼ばれるようになった。企業のメディア露出や記者・ディレクターのネタを集めるときのルーティンなどをセミナー形式で教えるようになった。ご縁をもらって、スタートアップの育成プログラムでPRやメディアとの付き合い方について起業家にアドバイスする機会もいただいた。

日本語講座も開かせていただいた。意識しているのは「伝える」。「伝える」と「伝わる」は違う。同じ意味を持つ言葉でも文語と口語では見た目の印象も変わるからブログで書くときは意識する。とにかく書かないと、文章力は上がらない。

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人生、思ったとおりにはならないけど、やったとおりには、なる。

僕は、思ったとおりの人生は歩んでいない。バラエティ番組をたくさん掛け持ちして各局をまたいで活躍するのが「思ったとおりの人生」だった。「やったとおりの人生」は報道・情報番組を長く担当した。

思ったとおりの人生」を歩むには、とてつもない努力がいる。武井壮さんのツイート見て改めて感じた。

「思ったとおりの人生」を歩む人はほんの一握りだ。いや、僕らから見て「思ったとおりの人生」は、その人にとっては「やったとおりの人生」なのかもしれない。それは本人にしかわかり得ない。

僕は努力が足りなかったから、「思ったとおりの人生」は歩めなかった。でも、「やったとおりの人生」で身につけたスキルや知見は、また別の「やったとおりの人生」を導いてくれた。それでいい。

高校生が「思ったとおりの人生」を歩もうと奮闘する姿は尊敬に値する。僕が高校時代に「思ったとおりの人生」を歩みたくて夢中になったバンド活動はその後、「やったとおりの人生」になった。

大切なのは「思ったとおりの人生」を歩むために夢中になり、努力ができるか。これ、一生やるのはしんどい。人生の半分を生きてみて、「え、あと40年近くやらんといかんのですか!?」と愕然とすることもある。

でも、人生はやったとおりになる。それがわかっているから、しんどくてもやれる。



しんどくても、やるんだよ。やれ、俺。






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