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私は常に死にかけ人生を歩み続けてやるさ

私は人生いつも死にかけている。がしかし、死にかけているとは「生きてるの裏返し」である。

前回のnoteを基にもう少し横展開が出来そうだったので、毎度おなじみChatGPT博士に尋ねました。

リプをいくつか頂く中で、6番の希望が多かったので「恐れとの向き合い方」を私なりの考察で頭を回転させてみました。

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戦後。「日本のテレビ界の父」と言われる正力松太郎によって推進された街頭テレビ。私の両親、祖父母世代の諸先輩方は力道山の空手チョップがアメリカ人レスラーの胸元に叩きつけられるたびに熱狂した。

力道山がアメリカ人をバッタバッタとなぎ倒していく姿に敗戦の悔しさを重ね、数年前の「鬼畜米英」に思いを馳せた日本人。力道山の挑戦する姿に自らの悔しさを重ね、「よし我々も頑張ろう」と明日への活力にしていた。とはいえ、プロレスとはあくまでもスポーツ。大衆を鼓舞し、熱狂させるためのツールであったということは補足として付け加えておく。

戦後の日本および日本人は挑戦の連続だった。なぜか。挑戦しないと生きていけないからだ。あす食べるものや住む場所の確保もままならず、動いて動いて動きまくらないと死ぬ。「戦争孤児」という言葉が象徴するように、あすを生きていくために子どもたちも「ギブミーチョコレート」と、あらゆる知恵を振り絞って生きていたのだ。

そんな動乱期に「リンゴの唄」や「東京ブギウギ」が街頭に流れ、東京にも、大阪にも、福岡にも、北海道にも、たくさんの希望が芽生えつつあった。

あなたは、この状態をどう思うだろう。

「大変だなぁ」「可哀想だなぁ」「切ないなぁ」

今を生きる私たちからみれば、多くの人がそんなことを感じるだろう。

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ここで一つ、このnoteを読んでくださっているあなたに質問をします。

あなたは、生きてますか?

「生きてるに決まってるじゃん」と答えるでしょう。では、もう一つ質問します。

あなたは、生きてるのではなく、生かされてませんか?

この問いに、あなたはなんと答えるでしょうか?おそらく「そうです」と答える人は少ないでしょう。

でも、この問いを突きつけられて、あなたは何を思いますか?

戦後の動乱期、敗戦から立ち直り「奇跡の復興」を遂げた日本社会。高度経済成長の波に乗り、私たち世代(ロスジェネ世代)が70年代に生まれ、日本は世界屈指の経済大国になりました。そこには全国各地で生まれた様々な「挑戦」の結集がありました。

その挑戦の背中を押したのは力道山であり、植木等であり、石原裕次郎であり、美空ひばりであり、銀幕やテレビのブラウン管に映るスターたちでもありました。戦後の日本は挑戦するしかない環境しかなかったのです。

こうした視点で見たとき、私はこんな考えになりました。

「羨ましい」と。

確かに貧しい時代でした。あす食べるものがあるのか、あすも生きていられるのか、私の両親は1949年と52年の北海道生まれなので、幼少期の話を私によくしてくれました。そんな時代を生きてきた先人たちはさぞご苦労なさったでしょう。

日本に「平和」という状態が続いて、そろそろ80年になります。(ここでいう「平和」とは、いわゆる「戦争状態」ではない意味として理解していただけばと)この先人たちが築いてくれた「平和」という状態の恩恵を受けて生きている私たちですが、時代とともに生まれてきた「膜」があります。

それが「挑戦することへの恐れ」です。

歴史を振り返ると、人間は飢餓との戦いでした。生きていくための食糧を奪うのが戦争の大義名分でした。自分たちの食糧確保のために戦い、守り、これの繰り返しによって発展してきた文化・文明もあります。

人類は世界的な大戦を2回起こしてしまった経験から、二度とこうした戦争は起こしてはならないと、ありとあらゆる施策をもって今の状態を何とか維持しています。

こうした平穏な世界はもちろん素晴らしいですし、ずっと続いていけばよいと心から願っています。この心地よい状態、たくさんのものを与えてもらっている状態で生きると恐れや不安も限りなくゼロになります。

「なんと素晴らしい社会なんだろう。最高じゃないか。大学卒業して、会社に行って働いていれば給料はもらえるし、土日は休みだし、お盆休みも年末年始の休暇もバッチリ。

会社の有志で開いた花見で、自分と斜向かいのデスクに働く女性と桜の木の下で意気投合して付き合って、週に1回は会って第1・第3土曜は自宅で、第2・第4土曜は彼女の家で、2日で最低3回はセックスして、「きょうも良かったよ」と彼女を腕枕して、月曜日は左腕が筋肉痛状態で出勤して、また週末に会ってセックスして、最高じゃないか。

結婚して子どもが生まれて、じぃじとばぁばも喜んでくれて、30歳手前で東京23区内にマイホームを建てることもできた。じぃじとばぁばが住む家から徒歩8分。週末は近所の公園に行ってピクニック気分。なんと幸せな家庭だろう。もうすぐ念願の主任になれる、頑張ろうっと」

と、私が全く体験してないエピソードを書いたので、ディテール不足かもしれませんね。でも、書いて思います。

生きるってなんなのか、と。

このエピソードの出演者に恐れも不安も全くないとは思いません。コロナ禍で今後どうなるんだろうと恐れや不安も出てきたでしょう。

誤解を恐れずに言うと、私はコロナ禍は戦時中と同義だと思っています。コロナ禍がいつ明けるのかわからんという中で、新しいことに挑戦しようと考える人たちも増えました。

しかし、「平和」に慣れてしまった私たちの世界には、現状の「幸せ」を変えたくないぬるま湯の膜の上にある「恐れ」が貼り付いています。この膜が挑戦する世界を濁らせ、澱んだものにしている。

戦後。日本社会を生きた先人たちは膜もない中で、「ヨーイドン」の状態から、砂利道をアスファルトに舗装し、整えたインフラで経済を回し、国を豊かにしていきました。ソニーが生まれ、松下電工が生まれ、ホンダが生まれ、日清食品が生まれ、まさに死にかけの状態からの這い上がりぶり。こうした先人たちには尊敬の年しかありませんし、彼らの秘話に触れる度に感動を覚えます。

これが「生きる」なんじゃないかと。

私の半生を振り返ると、18歳から社会に出た瞬間から「死にかけている」状態でした。

でも、そんな状態だからこそ「生きている」実感があります。何かになりたくて、ずっと挑戦し続けて、欲しい自分を手に入れたくて挑戦しています。でも、そこには恐れも不安もずっとつきまといます。絶対になくならない。だから、恐れがあるのは当たり前です。そこを受け入れてから、「生きる人生」が始まるんです。

だからね、挑戦をするときに「怖いな」「恐れが」「不安が」あるのは当然なんです。それがないのは天才肌タイプの、思考回路が変わっている人だけ。

私は凡人です。マジで凡人。不安や恐れだらけの人生だったけど、なりたい強烈に自分があったからずっと挑戦し続けてきました。それを別の言葉に変換すると、「死にかけ続ける」なんです。死にかけ続ける人生にはストレスだらけです。でも、我慢のストレスよりよほど幸せなストレスです。

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私は人生いつも死にかけている。がしかし、死にかけているとは「生きてるの裏返し」である。

これが私の「挑戦と恐れ」に対する思考回路の果てに生まれた言葉です。

恐れのない人生なんて、あるもんか。

不安のない人生なんて、あるもんか。

最後まで読んでいただき感謝です。ほんの少しでも、心が動いた、ざわついたなどの揺らぎを感じてくださったら、スキを押してくださると嬉しいです。

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