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この免許で自由に生きる!

泥棒事件の後、しばらくして
大阪で看護婦を募集している病院があると噂を聞きました。

そこは「藤永田造船所附属病院」というところで
大阪の鶴見橋の商店街のあたりにあった病院でした。

若い方はご存知ないかもしれませんが
「法善寺横丁」を歌って大ヒットさせた
歌手の藤島武雄さんが
そこの病院の看護婦さんだった
「鳥海みつ子」さんという方とご結婚されることになり退職するので
新しく看護婦を募集しているとのことだったのです。

私はなんだかとても面白そうに思えて
「行ってみよう!」と後先考えずに大阪に向かいました。

そのころの私は看護婦の免許さえあれば
なんでもどこでも生きていける!
と本気で思っていました。

まあ、念願かなってその病院で働くことになったのですが
しばらくしてその病院が閉鎖するという事態がおきました。

 向かって左から2番目が私です↓


閉鎖されればそこで働く人たちが職を無くしてしまう!
私たち看護婦の多くと食堂のおばさんや掃除のおじさんも
「組合総連」に入って
閉鎖反対!の運動が始まりました。

しかし、戦う相手は会社です。
会社側はその総連の切り崩しにかかってきました。

まず看護婦たちを一人一人呼び出し
「あなたの望みの新しい病院をどこでも紹介するから・・・」と
言われ、多くの看護婦達はその条件を受けて
藤永田造船所病院を去って
新しいところに就職していきました。

でも、掃除のおじさんや、食堂のおばさんには
なんの保証も示されませんでした。
ここを解雇されたらたちまち職を失うのです。

そんな切り崩しの中で残った看護婦はたった3人となりました。
もちろん、私はその中の一人でした。

ある日
箕面市の山荘に「食事会」と称して
残った看護婦3人が呼び出され
会社の人事部長さんと
話し合いがされました。

私たちの条件はただ一つでした。
「私たち残った3人の看護婦には新しい病院の斡旋はいらない。
その代わり
掃除のおじさん達や食堂のおばさん達の当面の賃金補償と就職先をきちっと確保してあげてほしい」
ということでした。

最終的に会社はそれを承諾してくれ
藤永田造船所病院は閉鎖となりました。

一緒に最後まで戦った人たちは
大阪の東病院や府立病院へと就職していきました。

私は「なんの保証もいらない!」
なんて勢いのあることを言ってたくせに
結局、なんのあてもないまま
トボトボと和歌山に戻ることになったのです。

その後
その時の戦友看護婦友達に会うことはありませんでした。

皆さんどうしているのでしょうか?

お元気でしたら、是非お会いして、あの時の若い勢いのある
戦いぶりを笑いながら話したいと思います。

  向かって左端「診療日誌」を持ってるのが私です↓

そういえば・・・
ずっと後に
占い師の方に運勢をみてもらったことがあるのですが
「あなたは女性だからこうして普通に暮らしているけど
男性だったらヤクザの親分か政治家になってた」と言われたことがあります。

確かに。
そう言われればそんな気質があるように思います。

怒らせたら怖いんですよ。

 キミちゃんより



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