胃薬と共に
「稲葉よ、頼むから頑張ってくれ!」
稲葉をマウンドに送り出した近藤コーチの気持ちを代弁すると、きっとこんな感じだったに違いない。前夜はリリーフ5人をつぎ込む総力戦を敢行。勝ったからいいものの、実はブルペンにはサウスポーの佐藤政夫しか残っていなかった。もし延長に入っていたら鈴木孝政の4イニング目突入か、佐藤に託すかの二択しか手はなかったわけだ。
3連投となった鈴木孝政は「どおってことはありませんね」と平気な顔をしているが、この先さらに加熱するであろう優勝戦線を思えば、若きホープをそろそろ休ませたいのが首脳陣の本音だろう。しかし松本、三沢に一時期ほどの安定感がなく、星野仙だって毎日投げられるわけではない。そうなると、鈴木を初めとしたリリーフ陣に皺寄せがいくのはどうしたって避けられないのだ。
だから必然的に、実績のある稲葉に期待がかかる。前回登板ではようやく “4回の呪い” を解く完投で2勝目をマーク。あの時のようなピッチングでできるだけ長いイニングを投げ、疲れ気味のリリーフ陣を休ませることができるか。“幸運の金縁メガネ” をかけた稲葉の投球に注目が集まったのだが……。
* * *
4回途中、稲葉は2死満塁のピンチを迎えたところで降板を告げられた。許した安打はわずか2本。それでもベンチは躊躇なく動いた。
初回こそ2死二、三塁のピンチを踏ん張ったが、3回は四球で出した先頭のランナーを二盗、味方のエラー、犠飛でノーヒットの生還を許した。4回はボイヤーが流し打ちの16号ソロ。さらに3四球でピンチを広げ、遂にタオルが投げ込まれた。前回払拭したはずの “4回病” が再発したような無様な投球である。
慌ただしく動き出すブルペン。いの一番に声がかかったのは竹田和史だった。半ばスクランブル的な登板だったが、竹田は落ち着いていた。江尻を二ゴロに取り追加点を阻むと、すぐさま中日打線が反撃態勢に移る。5回表、ここまで高橋重行の前に1安打に抑え込まれていたが、1死から右翼線二塁打の谷沢を置いて木俣がライトポールいっぱいに14号同点2ラン。ひと振りで試合を振り出しに戻した。
こうなると今の中日打線は止められない。6回は1死から高木守、谷木、井上の3連打で勝ち越し、好投の高橋をノックアウトしたのだ。
「やはり優勝を狙うチームはベンチの気迫が違う。ワンチャンスを生かす盛り上がりがすごい。僕の調子は今季最高だったのに、木俣にはただ一つの失投をうまく打たれた」
絞り出した言葉に無念さがにじみ出る。たしかにここ最近の中日の「ここぞ」での勝負強さには目を見張るものがある。ただしこの試合に関しては、序盤の劣勢から流れを引き戻した竹田のナイスリリーフを忘れてはならない。5、6回も反撃を断ち、7回に星野仙の救援を仰ぐまで巨鯨打線を堰き止めた。稲葉の乱調で崩れかけた試合を修復したのは、間違いなくこの若きサウスポーだった。
ゲームは7、8回を星野仙が凌ぎ、9回には4連投となる鈴木投入の豪華リレーで中日が5連勝を飾った。なんと4試合連続の逆転勝ちだ。見ている分には痛快だし、高橋が言ったようにベンチのムードも最高潮だ。しかしその陰には人知れず壮絶なプレッシャーと向き合う男の姿があった。
ーー木俣達彦である。高打率で打線を牽引する木俣は、“本職” の捕手としても相手バッターと戦い続けている。ピンチに降ろされる投手とは違い、捕手はたとえ逃げ出したくなるような局面でもホームを死守しなければならない。それでいて勝てば投手の手柄、負ければ「リードが悪い」などとなじられるのも捕手のツラいところだ。
とりわけ8月に入ってからの中日は手に汗握る熱戦が続いている。木俣は最近、胃薬が手放せないという。「後半戦は若い投手がよく投げる。だからリードするだけで精一杯」。そう言って試合中もベンチに戻るたびに錠剤を流し込む。
この日は4回の同点弾に続き、7回にもソロを打って2ホーマーの大活躍。「気力だけでやってる。2本ともストレートだった。それよりリード面で神経を使う。1、2点差のゲームは疲れるね」。
そう言って苦笑するが、本当に大変なのはまだこれから。木俣の気苦労は当分のあいだ続きそうだ。
洋3ー5中
(1974.8.21)
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