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ノスタルジア

 試合前のあわただしいベンチ裏、巨人の選手サロンは一種異様な空気につつまれていた。普段なら食事のあとのミーティングが始まる時間。しかしこの日は様相が違っていた。幹部室に入ったきりの川上監督と長島茂雄ーー。重苦しい時間が流れる中、言葉には出さずともそれが何を意味するのかは誰しもが理解していた。

 やがて試合が近づき、この日のスタメンがスコアボードに掲示される。1番柴田、2番上田、3番末次、4番王……栄光の巨人軍を彩るプレーヤーが順に読み上げられるにつれ、本来そこにあるべき名前がないことに観客たちもざわつき始めた。

 怪我などの特別な事情がない限り、V9巨人のクリーンアップには常に “長島” の2文字が燦然と輝いていた。ヘルメットが脱げ落ちるほどのダイナミックなスイング、平凡な打球をファインプレーに見せてしまう大仰な守備、そうした華やかで味のあるハッスルプレーの数々に巨人ファンのみならず全国の野球好きが魅了され、魂を鷲掴みにされた。いつしか長島は “国民的スター” と呼ばれる存在にまでなっていた。

 その長島がスタメンを “外される” など、これまでなら決して考えられなかったことだ。ついにこの日が来た。苦渋の末に川上監督が断を下したのだ。「監督と僕とはだいぶ前から話し合っていたんだが、決定するのは監督だ。話題に上がってから相当時間が経った。それだけ監督は悩んでいたのだ。他の監督ならノイローゼになっただろうよ」。腹心の牧野コーチが川上監督の苦しい胸のうちを代弁した。

 長島のいない巨人は先発に小林を立てた。スラっと伸びた長い足に、端正な顔立ち。野球選手らしからぬ細身でスタイリッシュなこの若者は、図らずも巨人の世代交代を象徴するかのような存在であった。

 ゲームは4回に末次のソロで先制した巨人が優位に進めていた。というよりも中日が小林のサイドハンドにまったく歯が立たず、なんと6回2死までパーフェクトに抑え込まれていたのだ。ようやく初安打を打ったのが投手の稲葉なのだから、他の野手はいったい何をしているんだと野次られても仕方ない。しかし7回、中日は夢破れた小林の動揺を見逃さず一挙加勢の反撃に打って出た。ウィリアム四球、谷沢二塁打、マーチン敬遠でたちまち無死満塁。前夜も同じように1点差の7回に逆転劇を演じたこともあり、三塁ベンチが俄然盛り上がりをみせた。

 しかもバッターは井上、大島と一発屋が並ぶ願ってもない打順である。最低でも同点、あわよくば……と夢みがちにそろばんを弾くのは人情だろう。だが球界には “無死満塁は点が入らない” なんて迷信もある。井上が落ちる球を2球つづけて空振りすると、にわかに不穏な気配が中日ベンチを覆い始めた。こういうとき、大抵イヤな予感というのは的中するものだ。井上、大島が外野フライすら打てず、代打の広野も凡退。最初で最後の大チャンスはあっけなく潰えたのであった。

 これでガックリ来たのか、ここまで好投の稲葉も7回に河埜に2ランを打たれて万事休す。「そりゃ点が入るに越したことはない。でもそんなに気にしちゃいなかった。河埜に打たれたのは失投。僕の責任ですよ」。そうやって自分のいたらなさを反省するのが実に稲葉らしい。内心は煮えくり返る思いだろうに、この男は決して愚痴や不満をこぼさないのだ。

 大歓声に迎えられて長島が登場したのは7回1死一、三塁の場面だった。フルカウントから高く打ち上げた遊撃フライに倒れ、とぼとぼベンチに帰る “国民的スター” の背中には夕暮れの哀愁が漂っていた。

「ノスタルジア的に扱ってくれるなよ」。牧野コーチが報道陣に釘を刺したのも分かる。だが21歳小林と、22歳河埜の活躍で勝ったという事実が、なによりも雄弁に巨人の “今” を語っていた。

巨3-1中

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