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名手の不覚

 観客を沸かせるプレーも土台には反復練習がある。華やかな舞台で大歓声とスポットライトを浴びるプロ野球選手も、裏では地味で面白みのない練習を朝から晩まで気が遠くなるほど繰り返す。何千、何万回と、失敗しようがないほど徹底的に体に染み込ませるのだ。

 名手と評される中日の二塁手、高木守道が “練習の虫” であることは有名だ。代名詞のバックトスも、やはり反復練習の末に身につけた名人芸だという。そんな彼でさえ咄嗟の瞬間に思わぬミスを犯すことはある。

 この夜がそうだった。初回、中日の先発三沢は江尻に同点ソロを浴びたあと、松原に中前打を許して1死一塁。つづく江藤慎一の一打はボテボテの投ゴロだった。鈍足の江藤だから、慌てなくても悠々と併殺が取れるタイミングだ。ところが二塁のベースカバーに入った高木守が、三沢からの送球を大きく弾いてしまい、ボールが左中間方向に転々とする間に一塁走者は三塁を陥れる。ゲッツーどころかオールセーフ。たちまち一、三塁とピンチは拡大した。

「あれは僕の方が悪かった。もうひとつテンポを遅らせて投げればよかったのに、慌てて投げたので送球がチェンジアップみたいになってしまった」

 三沢はこう弁解するが、あからさまな悪送球を放ったわけではない。まして高木守なら多少のイレギュラーには対応できたはずだ。キャンプで飽きるほど反復した投内連携での凡ミス。生真面目な高木守の動揺がさらなる災難を招く。

 三沢がなんとかツーアウトまでこぎつけた後、大洋が6番シピンのときに動いた。無警戒だった一塁ランナーの江藤がスタートを切り、木俣が即座に立ち上がり二塁に送球。しかし慌てた分だけボールがやや高く浮いてしまう。瞬間、三塁ランナーの松原が本塁へ走った。意表をつく重盗を仕掛けてきたのだ。

 ボールを持った高木守が即座に送球体勢に入る。このあたりの動きには卒がない。しかもほんの少し松原のスタートが遅れた分、本塁刺殺も十分狙えるタイミングだ。猛然とホームに滑り込む松原。本来なら木俣のミットにボールが収まり、間一髪で「アウト」のコールが聞こえるはずだった。ところが高木守の送球は大きく逸れ、その間に松原が生還。江藤にも三塁を奪われる形となった。

 記録はエラー。捕球の次は送球でもミスが出た。名手と呼ばれる男が1イニングに凡ミスを続けざまに犯すなど誰が想像しただろうか。よほど自分が許せなかったのだろう。高木守はこの後すぐに交代すると、ゲームの行方を見ることなく監督に許可をとって宿舎へと引き揚げてしまった。

 結局ゲームは完敗。中日は毎回のようにチャンスを作るも4併殺の拙攻が響いた。もし高木守がミスしていなければ……、もし高木守がそのまま試合に出ていれば……。そんな “if” が頭をもたげる。

 試合後、バスで引き揚げる中日ナインを待っていたのは怒りの収まらないファンの罵声だった。「モリミチを出せ!」「今日はモリミチのせいで負けたんだ!」。ドアや窓ガラスが叩かれ、ようやくバスに乗り込んでも取り囲まれているので発車もできない。あまりのしつこさに選手たちが苛立ち始めたその時、最前列でくつろいでいた与那嶺監督が叫んだ。

「静かにしてくれ!」。たじろくほどの大声が喧騒を切り裂いた。「モリミチだってエラーもする。今までモリミチのおかげで幾つ勝てたと思ってるの!」。温厚な指揮官が発した一喝に場の空気が一変。大騒ぎしていたファンも引き下がるしかなかった。

 たしかにこの日、高木守は負けに直結する致命的なミスを二つも犯した。名手らしからぬ不覚だった。試合中にもかかわらず早退したのも決して褒められた行動ではないかもしれない。しかしチームにとって高木守が余人をもって代えがたい攻守の要であることも、また紛れもない事実なのだ。

 10年以上にわたり中日を支え続ける職人は、誰もいない宿舎で何を感じたのだろうか。こんなことで落ちぶれるモリミチではない。声を張りあげて庇った指揮官の期待に応える日が必ず来るはずだ。

大洋4ー3中

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