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中日球場の奇跡

 5.5ゲーム差で迎えた首位阪神と2位中日の直接対決。ただし、その意味合いは両軍にとって大きく異なる。直近4勝1敗と好調を維持し、着々と土台を固めつつある阪神。かたや中日は目下3連敗中となかなか波に乗ることができず、Bクラス転落の危機が間近に迫っている。

 首位攻防とは名ばかりで、実質的に中日はペナントレースから脱落するかどうかの瀬戸際に立たされているのだ。

 前の試合では高木守が痛恨の2失策を演じて大洋に不覚をとった。「つまらんエラーをやってねぇ」。二日経っても高木守のモヤモヤは晴れなかった。一晩寝ればイヤなことはキレイさっぱり忘れるという選手もいるが、高木守は違う。グラウンドでやり返すことでしか己の感情を払拭できない。どこまでも愚直で不器用な男なのである。

*   *   *

 試合は序盤から阪神の一方的な展開になった。初回に田淵の2ランで先制すると、3回にも再び田淵の22号2ランで突き放す。中日も2、4、5回に1点ずつを返して追いすがるが、阪神は8回に藤田がとどめの2ランを放ってスコアは3対6。試合の趨勢は決したかに思われた。

 中日は最後の反撃に打って出る。無死から井上、木俣の連打で一、二塁。しかし大島、代打江藤が倒れてあっという間にツーアウトをとられる。

 野球は9回ツーアウトからーーとは言うものの、胸がすくようなドラマはそうめったに起こるものではない。まして3点ビハインドとなれば、その確率はグンと下がる。

 スタンドには最後まで声を張りあげて応援する者、横目で試合を見つつ帰り支度を始める者。すでに席を立ち、帰路についた者も少なくなかった。

 ベンチはもちろんあきらめていない。2イニングを無失点に抑えた村上に代打ウィリアムが送られる。最近は谷木の台頭でベンチを温めることが多いが、いつでも出られるように準備だけは怠ってこなかった。そのウィリアムがセンターへ抜けるタイムリーを打つ。これで2点差。俄然、スタンドも盛り上がる。

 こんなとき、かぎりなくゼロに近い可能性であってもファンは(おそらくベンチも)“奇跡の逆転ホーマー” という甘い夢を見たくなるものだ。

 場面はなおも一、二塁。打席に高木守が入る。マウンドの古沢とは今年3割ぴったりと相性がいい。

 スコアボード上段に構える大時計の針は午後8時44分を指していた。その初球、スイングの軌道と共に夜空に舞い上がった白球が一直線に伸びた。狙いすました一振り。地鳴りのような大歓声に乗り、打球はそのままレフトスタンドへと吸い込まれた。逆転サヨナラ3ラン--ファンの絶叫と喝采がこだまし、球場全体が異様な興奮に包まれる。

 ひとり、またひとりと観客たちが柵を飛び越えてグラウンドに侵入し、歓喜のヒーローを出迎えようとホームベース付近に集まってくる。ダイヤモンドを一周する高木守は、その光景を見ながら「殺されるのではないか」と思ったという。

「実はあれが逆転のサヨナラ3ランだということを忘れていた。一塁を回って野手が帰ってくるので、“あ、そうか” と思った。とにかく最近は調子が悪いからヒットを打つことだけを考えていた」

 サヨナラゲームの当事者とは思えぬ静かな口振りに、高木守の性格がよく表れている。しかし胸のうちには相当な決意を秘めていたに違いない。それを熱っぽく語らないのが、いかにも高木守らしい。

 一方、打たれた古沢は茫然自失。一球に泣く、などといったありきたりな表現ではその心情を察することはできそうにない。涙をぬぐってベンチに戻ると、うつろな表情の金田監督に「ごくろうさん」とだけ声をかけられた。

 その金田監督も試合後しばらく長椅子から立つことができなかった。魂が抜けたように一点を見つめ、ポツリとつぶやいた。「野球とは何が起こるかわからん。怖いよ」ーー。

“たかが1敗” では済みそうにないほど憔悴しきった阪神ベンチ。逆に中日ベンチは「4.5」という依然として大きなゲーム差をまったく感じさせないほどの活気を取り戻した。

 この夜、中日球場で起こった奇跡は、今後のペナントレースの行く末を占ううえで重要な意味を持ってくるのではないか。そんな予感をもはらむ、あまりにも劇的な勝利となった。

中7xー6神
(1974.6.28)

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