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別人になった金城

 軍隊にとっての上官命令と同じように、プロ野球の世界において監督の指示は絶対だと考えられている。監督が審判に「交代」を告げるためにベンチから腰を上げれば、たとえ不本意であっても選手はそれに従うしかない。そこに選手の意志が介在する余地は本来あり得ないのだ。

 しかしこの日、谷沢健一は交代を拒んだ。8回の守りに入る前、交代を打診した与那嶺監督に「まだ行けます」と言ってポジションへと向かったのだ。右足アキレス腱の具合は芳しくなく、先の巨人戦で痛めた右手首も治っていない。谷沢の体調を配慮しての打診であることは承知している。いつもなら素直に従うが、この日に限って谷沢は「変な予感がした」という曖昧な理由で出場を志願したのである。

 この時点で中日は2点リード。だが最大5点あったリードをじわじわと詰め寄られ、雲行きは怪しくなっていた。5回途中からマウンドを引き継いだ星野仙は慎重なピッチングで広島の反撃を食い止めていたが、8回に衣笠のソロで1点差。そして9回ワンアウトからヒックスに特大の同点ソロを浴びてしまう。序盤に苦手の金城を打ち崩し、優勢に持ち込んだはずが最後の最後で水泡に帰したわけだ。

 勝ち投手の権利が目前の渋谷をイニング途中で降ろしたのも、このゲームを絶対に取るのだという首脳陣の気持ちの表れでもあった。星野仙も踏ん張ったが、克服したはずの一発病がここで顔をのぞかせるとは、よもや本人でさえも思ってもみなかっただろう。

 ショックを引きずったまま、最終回の中日の攻撃が始まった。今年から野球規則が改定され、ダブルヘッダー第一試合は9回打ち切りとなった。つまり中日に「負け」はないのだが、もしこのまま終われば「負けに等しい引き分け」という無念が残ることになる。

 9回裏、先頭の井上が中飛に倒れた後、谷木が死球で出塁。打順はクリーンアップ、“志願出場” の3番谷沢に回ってきた。カウント2ー2。木原のカーブを振り抜くと、打球は右中間スタンドへライナーで飛び込んだ。ダイヤモンドを小躍りして一周した谷沢が、ホームベース前でヘルメットをポーンと空に掲げる。

 数分前までのイヤなムードを振り払うサヨナラ2ランを打ったヒーローは、「サヨナラヒットはあるが、ホームランはプロ入り初めて。気持ちがいいね」と、うわずった声でまくし立てた。

 それにしても不思議なめぐり合わせである。もしあのとき素直に交代に従っていれば、9回に谷沢が打席に立つことはなく、試合は異なる結末を迎えていただろう。まさか未来が見えていたなんてことはないだろうが、「とにかく僕はこのゲーム、変な感じがしたんです。それで交代せずに行ったんだけど、よかったな」と言うのだから驚かされる。

 折からのオカルトブームは近ごろのヤラセ疑惑によって下火になりつつあるが、人間の “第六感” は侮れないものだ。そう思わせる谷沢の劇的ホーマーであった。

①中7xー5広

*   *   *

 不思議といえば、投手の出来、不出来というのは投げてみないと分からないものである。第一試合に先発した広島金城は初回、1死を取るまでに4安打4失点(マーチン3ラン、木俣ソロ)を喫して無様にマウンドを降りた。あきらかにこの日の金城は、本来の出来には程遠かった。

 その金城が第二試合では、2回途中でノックアウトされた白石を引き継ぐ形で再登板となった。プレーボール後、たちまち3点を失った中日だが、3試合連続サヨナラ勝ちの勢いに乗って早々と2点を返し、ここで金城が登場。イケイケムードの最中、つい数時間前にコテンパンにした顔が出てきたのだから、中日ベンチはさぞ盛り上がったことだろう。

 しかし今度の金城は第一試合とはまるで別人だった。見違えるような伸びのあるボールに中日の各打者も手こずり、代わりばな無死一、二塁のチャンスを上位打線で潰すと、その後も付け入る隙もなく淡々とアウトを重ねていったのである。

 結局最後まで投げた金城は4安打1失点の好リリーフで9勝目をマーク。同じ日に同じ投手がここまで正反対の投球をみせることがあるとは。第二試合までのインターバルにいったい金城が何をやったのかは知る由もないが、連勝を狙った中日としては手痛い一敗となった。

➁中3ー6広
(1974.6.23)

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