見出し画像

慎ちゃんの懸念

 1万2千人という “普段どおり” の客入りとなったこの日の中日球場は、昨日までの賑わいが夢か幻だったのかと錯覚するほど “祭りのあと” の静けさが漂っていた。「歓楽極まりて哀情多し」ではないが、こういうときの選手たちは虚脱感に襲われ、力が入らなくなるものだ。

 まして極限の集中力と高いテンションでナイター3試合を戦い抜いた直後の小雨まじりのデーゲームである。いくら優勝間近の非日常とはいえ、人間である以上、疲れが出てしまうのは避けられない。対して大洋は優勝のプレッシャーとは無縁ながら3位争いには絡んでおり、適度な緊張感をもって試合に臨めるという絶妙な立場にある。

 プレイボールがかかると、両軍の動きの違いは明白だった。大洋バッターの鋭いスイング、生き生きとした目の輝きに比べて、中日ナインの腑抜けた動きときたら、どちらが首位チームなのか分からないほどだ。

 2回に早くも大洋は中日先発三沢からタイムリーで先制し、続く3回にはさらに2点を追加。おまけに三沢は右手親指の深爪にチェンジアップの握りが引っかかり、激痛を訴えて降板となった。

「こんなときだから続投しないといかんと思ったけど、どうにも痛くて」

 二番手の水谷は当然準備をしておらず、肩もできていない中での緊急登板である。この水谷、そして三番手の星野秀が揃って打ち込まれ、6回終了時点で1-9という一方的な展開となった。

 スタンドから飛ぶ容赦ないヤジ。全力で戦って負けるなら納得もできる。だが、木俣をベンチスタートさせたことを含めてこの日の中日からは “本気” が伝わってこなかった。だからファンの怒りも一層倍加するのである。

「硬さはなかったけど、リラックスの仕方が、みんななんとなくダランとしてしまって、先に点を取られると相手のペースにはまって気合い負けした感じだった」と江藤省三が首をかしげれば、谷沢も「もっとケンカ腰でいくべきだった。カッカと燃えなかった」と、気迫不足だったことを認めた。

 中日のこの状況を、一塁側ベンチから心配するような眼差しでジーッと眺める男がいた。大洋の背番号8、江藤慎一である。当時の球団幹部との感情のもつれから中日を追われるように退団して早5年。その後ロッテ、大洋と渡り歩いたが、11年間所属した古巣への愛着は少しも消えていない。

 3回1死二、三塁。大洋のチャンスに江藤が打席に立つと、中日ファンからかけ声が飛んだ。

「慎ちゃん、目をつぶって打ってくれ!」

「慎ちゃん、名古屋へまた戻ってきてくれよ!」

 痛いほど気持ちは伝わってくる。だからと言ってわざと空振りしたのでは敗退行為になってしまう。江藤は心を鬼にしてバットを振り、ボテボテの遊ゴロで三塁ランナーが生還した。いつものフルスイングとは程遠い当てに行くバッティングに、無意識の手ごころが感じられた。

「長いこと野球やってきたが、今日ほど複雑な気持ちになったのは初めてだよ」と江藤は吐露した。そして「こんなこと言ってはなんだが、どうしても言わせてほしい」と前置きし、江藤は続けた。

「中日の選手に元気がなさ過ぎる。それにお客さんのヤジが厳しいねえ。でもそれは選手に頑張ってもらいたいからで、選手がヤジを必要以上に意識してはいかんよ。ここが若いドラゴンズの修行の場だね」

 去る28日にやっとの思いで灯したマジック12は、ひとつも減らすことができないまま消えてしまった。残り試合数は中日13に対して巨人15。ゲーム差は「2.5」に縮まり、絶対優位に立っていたはずの中日は一転して窮地に追い込まれた。

 問題はスケジュールの最後に組み込まれた巨人とのダブルヘッダーだ。その日は巨人にとってのシーズン最終戦でもある。つまり既定路線とされている長島茂雄の引退試合が、ペナントレースの雌雄を決する優勝決定戦となる可能性が高まりつつあるのだ。

 そうなれば中日は名古屋を除く日本国中を敵に回すことになりかねない。先の首位攻防戦でも気合が空回りして本来の実力を出せなかった中日ナインが、果たして天下分け目の大一番で冷静に戦うことなどできるだろうか?

「走ること、声を出すことにスランプはない。明日から元気を出してやる。苦しくてもあと13試合よ」

 試合後、与那嶺監督は努めて明るく声を張ったが、その先行きには “G” 模様の暗雲がもわもわと広がり始めている。

中5-9洋
(1974.10.1)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?