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雨天決行

 甲子園球場に大粒の雨が降りだしたのは試合開始まであと約1時間という頃だった。中止と決めこんでいた三塁ベンチの中日ナインにはすっかりお気楽ムードが漂い、星野仙に至っては「さあ、みんな引き揚げようぜ!」と帰り支度まで済ませていた。

 しかし、どれだけ雨脚が強くなっても「中止」の決定が出ない。そうこうするうちに阪神の戸沢球団社長が直々に内野グラウンドの状態を点検。その後、審判団から正式に「決行」のアナウンスがあった。

 中止するか否かの判断は主催者側に委ねられる。つまり雨天決行は阪神サイドの意向というわけだ。名古屋では悪夢をみたが、3日の大洋戦は4点差から逆転サヨナラ勝ち。勢いづいているうちに中日を叩いて首位固めを期したい金田監督が頑なに決行を主張したとみられる。「雨? これくらいなんですかいな。たとえ嵐がきても今日はやりまっせ」。

 はなから中止にする気などなかった阪神と、撤収作業に入っていた中日。試合開始前から両軍の士気の差はあきらかだったが、いざ始まってみれば意外にも表情を曇らせたのは金田監督のほうだった。

*   *   *

「高木はやはりマークしていたんだがな。やはりちょっと硬くなっていたようだ」。阪神先発の古沢憲司は立ち上がりの投球についてため息まじりに振り返った。プレイボール直後、3球目の内角寄り真っすぐをクリーンヒットした高木守道は「もう少し考えてくると思ったのに、意外にあっさりと無造作に投げてきた」と語る。

 逆転サヨナラ弾の夜、古沢は蜂の巣をつついたような狂騒の中に放心状態で立ちつくした。あれからまだ一週間しか経っていないのだ。意識するなという方がムリな話だろう。ただ、古沢は少し意識し過ぎていたのかもしれない。先頭打者にヒットを打たれるのは誰だって気持ちのいいものではないが、特段騒ぎたてるほどのことでもない。ところが古沢は高木守を意識するあまり、たかが一本のヒットで完全にリズムを崩してしまったのである。

 そんな古沢の心情を見透かしてか、中日の攻撃も実にいやらしかった。2番谷木がバントの構えで散々じらした末に流し打ちを決めると、こんどは3番井上が手堅く送りバントで1死二、三塁。このチャンスにマーチンの二ゴロで高木守が果敢に本塁をつき、鮮やかに先取点を手にした。

 じりじりと炙るような攻撃が古沢の心身を擦り減らしていく。これも高木守が三塁ランナーであったからこそ入った1点であった。

「あそこはゴロなら思い切って突っ込もうと初めから狙っていたんだ」ーー雨でぬかるんだグラウンド。リスクが大きい中での走塁となったが、事前の心構えによって一瞬の無駄もないスタートを切ることができた。やはり一流選手はキモの座り方が違う。ゴロを捌いた一枝がホームをちらっと見ただけで送球をあきらめたのも、かつて二遊間を組んだ盟友として高木守の技術の高さを知っているからこそだろう。

 松本幸行の完封劇で幕を閉じたこのゲーム。終わってみれば初回の1点が決勝点になっただけに、古沢としてはまたしても高木守に一杯食わされた格好だ。

 こんなはずでは……といった金田監督もついつい愚痴が増える。「先に点を取られたことがちょっと影響したかもしれんな。とにかく最近のお天気にはまったく気分を削がれるよ。一度カラっと晴れた下で試合をしたい」。

 敢えてそうしなかったのは自分たちなのだが、イライラが先立つのも無理はない。これで中日とのゲーム差は「2.5」。負け数でみれば実際のゲーム差はもっと小さいとも言える。金田監督の願いとは裏腹に、虎の行く末には分厚い暗雲が垂れこめつつあるのだ。

神0ー3中
(1974.7.5)

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