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黒潮男児のひとり立ち

 無念の敗北を喫した前夜の巨人戦。痛恨の一発を食らった星野仙は悔しくて眠れない夜を過ごしたに違いない。その一方で、鈴木孝政はおそらく充実感に満たされていたはずだ。6回表、渋谷に代わってマウンドに上がった鈴木に対して、当初スタンドからは「大丈夫かいな」という心配するような戸惑いの声が挙がった。

 無理もない。鈴木はこれまで主に敗戦処理を担当しており、僅差の中盤に巨人の主力を相手に投げたことなど一度として経験がないのだ。ここで鈴木が追加点を与えるようなことがあればゲームの主導権は完全に巨人へと渡ることになる。逆にピシャリと抑えでもすれば、まだまだ中日は望みを捨てずに戦える。

 ゲームの流れを左右する大事なシチュエーションで鈴木を行かせたのは、首脳陣にとっても賭け同然だったかもしれない。

 その緊張のマウンドで、つい先月ハタチになったばかりの若武者は “圧巻” と呼ぶにふさわしい投球をみせた。6回に柴田、王。そして7回は長島。歴戦のV9戦士たちを相手に堂々三振を奪ったのだ。

 鈴木は「若さを思いきりぶつけてみた」と照れながら、意外にもクレバーな面も見せていた。長島を空振り三振に取った場面。フォーク連投で追い込むと、「木俣さんがもう一球フォークで来いとサインしたけど、僕首を振ったんです。5球もフォークを続ければ今度こそガツンとやられそうで……」。

 最後は高めの真っすぐ。見逃せばボールだったが、若き勢いを乗せた快速球に長島のバットが止まらなかった。

*   *   *

 一夜明け、またしても鈴木は大観衆の視線を一身に浴びていた。昨日と同じ、劣勢で迎えた6回表だ。

 先発の松本は長島に2発、王に1発のONアベック弾に沈み、5回限りでマウンドを降りていた。ここで鈴木がマウンドに向かうと、元気をなくしていた超満員のスタンドから拍手喝采が起こった。前日の投球ですっかりファンの信頼を得てしまったのである。

 巨人の打順はクリーンアップを迎えていた。柴田、王、高田。名前を見ただけで足がすくんでしまいそうなバッターたちにも、鈴木は逃げも隠れもせず真っ向から挑んだ。「球が速いだけじゃなく、角度があるんだね。あれでタイミングが全然合わんのだよ」(王)と言わしめる真っすぐで、なんと三者三振である。

「ピッチングは直球とフォークだけ。だが速いだけじゃなくコントロールがよかった」と語るのは中日が誇る分析屋・江崎スコアラーだ。

 球が速いだけの投手は他にもいるが、角度、コントロール、そして度胸まで備わっている投手はそうはいない。2年前のドラフト会議、中日は日大櫻丘高の仲根正広を1位指名する方針で固まっていたが、直前になって法元スカウトの進言で鈴木指名に切り替えた。夏の地方予選で見た鈴木の投球が目に焼き付いて離れなかったのだという。

 中日はその裏、井上2ランでたちまち同点に追いついた。これまでなら星野仙を投入する局面だが、鈴木は2イニング目の7回表もはつらつとマウンドに駆け上がった。この回は先頭末次のヒットから1死三塁のピンチを招いたが、河埜を三振、代打柳田を三邪飛に取って難を逃れた。するとその裏、中日は二番手小林を攻めて高木守が左前へ勝ち越し打。8回裏にはマーチンの23号弾が飛び出し、リードを2点に広げた。

「夏場はみんなバテるとき。それなのにあんなに速い球を投げるなんて驚異。最近の若い投手にしては珍しい。びっくりしちゃった」と、2夜連続で対戦した “老兵” 長島もヤングパワーに気圧された様子だ。

 9回表、無死から末次、淡口に連打されたところでさすがに降板となったが、バトンを受けた星野仙がこの日は卒なく締めてゲームセット。鈴木は嬉しいプロ初勝利を飾った。試合後はファンの声援に笑顔で応えるなど現代っ子らしくさばさばとしたものだったが、宿舎に帰って郷里の父親から電話を受けたとき、初めて勝利の実感がわいてきたという。

「孝政! とうとう親孝行をしてくれたなぁ!」。その言葉を聞いた瞬間、鈴木の頬を涙が伝った。

 昨年の年明け、鈴木は実家のふすまに「やるときゃやるぜ」と黒で大書し、郷里を後にした。精肉業を営む父親には「男になるまで帰ってくるな」と言って送り出されたという。出身は九十九里浜で有名な千葉県山武郡。外房の荒波に育まれた黒潮男児がこの日、立派にひとり立ちを果たした。

中5-3巨
(1974.8.7)

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