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夢のつづき

 この日の中日球場は観衆3万5千人、今季三度目の満員御礼にふくれ上がった。朝の時点で内野席5千枚、外野席1万3千枚が残っていた当日券もたちまち完売となった。前夜の勝利がいかに多くのファンの胸を打つものであったか、球場外のチケット販売所にできた長蛇の列がそれを物語っていた。

 この上昇ムードを逃す手はあるまい。ここで負ければ阪神の優位は保たれ、再び独走を許すことになる。中日はハーラートップの松本幸行で連勝し、じりじりとゲーム差を縮めたいところだ。

 一方の阪神は必勝を期して若生智男を先発に立てた。何日も前からこの日の登板を言い渡され、中8日と十分な準備期間を経てのマウンドとなる。勢いに乗る中日を蹴落とすか、あるいは飲まれるか。にわかにグラつき始めた虎の行く末を経験豊富なベテランに託した格好だ。

*   *   *

 ゲームは思わぬ形で幕を開けた。プレーボールの直後、1番藤田が右中間スタンドに特大の一発を運んだのだ。夢心地から現実に引き戻すような先頭打者ホーマーに、中日ファンで埋まったスタンドが一瞬にして静まり返る。ただ、打たれた松本に悲壮感はなかった。「キレのいいシュートを打たれたもので、あれは仕方がない」。その証拠に松本はすぐに気持ちを切り替え、後続を三人で退けている。

 この日の中日球場には前夜の余韻と熱気がありありと残っていた。1回裏、高木守道が打席に向かうとスタンドから大きな拍手と歓声が沸き上がった。サヨナラ劇のヒーローを出迎えるファンの喝采が、球場全体のボルテージを高めていく。そこからの中日の攻撃は、まるで “夢のつづき” を見ているかのようだった。詳細は以下のとおり。

高木守 左前安
谷木 二犠打(バントエンドラン)
井上 左本(2点)
マーチン 四球
木俣 右前安
谷沢 右前安(1点)
大島 右2(1点)
【投手:若生→山本和】
広瀬 左前安(2点)
松本 見三振
高木守 遊飛

 打者一巡の猛攻。足がかりを作った高木守は語る。「カーブを狙っていた。ちょっと高いと思ってバットを止めかけたんだが止まらない。あれがヒットとは、こりゃツイてきた。昨日のあれ(逆転サヨナラ3ラン)がなければ、ヒットになったかどうか分からない」。

 完全な当たりそこないが野手の間にポトリと落ちるのだから、“流れ” とはおそろしいものだ。こういう時は何をやってもうまくいく。久々に3番に入った井上が一発回答となる7号ホーマーを打てば、負けじと6番に下がった谷沢にもタイムリーが飛び出した。

「江夏がくるか、若生がくるか迷ったから、左の谷沢を6番に下げたのよ。井上ならどっちが来ても打てるからね」。思いきって打順変更に踏み切った与那嶺監督も笑いが止まらないといった様子だ。

 ただ、必ずしもツキや流れだけで勝ったわけではないとネット裏の江崎スコアラーは説明する。

「前の打者の攻撃を見よ。つまり相手の投手の攻め方を知れということだ。こっちの各打者の狙いはカーブ、ストレート、カーブと交互にいっている。完全に読み勝ち」

 なるほど。投球パターンを読んでいたのであれば、高木守が2球目、井上、木俣、谷沢が初球とことごとく早打ちを仕掛けたのも合点がいく。どんな現象も、突き詰めればその裏側にははっきりとした根拠があるというわけだ。

 対して悪夢のような時間を過ごした若生は「見たとおりですわ」と声を絞り出すのが精一杯だった。わずか19球、時間にして20分足らずのできごとだが、マウンド上では永遠に感じられたに違いない。

 これでゲーム差は「3.5」。前夜のサヨナラ勝ちは “うたかたの夢” ではなかった。

中9ー2神

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