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20番が泣いている

「そら、ごらん。心配するほどのことなかったでしょう」

 大勝したヤクルト戦から一夜明け、与那嶺監督の血色は健康そのもの。「大洋戦の3連敗は、確かにこたえたけど、長いシーズンにはよくあること。あそこの絶好調時にぶつかったのが不運だったね」と、既に過去の話として振り返る余裕すらある。

 懸念事項だった投手陣の不振も、松本と星野仙、左右の両輪の復調によって一気に視界が晴れた。「8月が終わればペナントレースの目処がつく。ここは何がなんでも踏ん張ってみせるよ」。注目の巨人戦を迎えるにあたり、指揮官は自信ありげに不敵な笑みを浮かべた。

 一方、ぐったりしていたのは名古屋入りした巨人御一行だ。前日までの阪神戦で巨人はのべ11人の投手をつぎ込みながら2敗1分けに終わった。2戦目こそ6点差を追いつく粘りで底力を見せつけたが、3戦目は接戦の末に惜敗。「これでは昨日の引き分けが何にもならなくなる」と川上監督もボヤきっ放しだった。

 ただでさえ負けたあとの旅路は憂鬱だというのに、悪いことは重なるもので、新幹線の架線事故による運休というアクシデントに見舞われたため、天下の巨人軍が近鉄の普通列車(大阪・上本町発)で回り道をする羽目になった。

「もともと名古屋は方角が悪いんだよ。いい思い出なんかありゃしない。暑いしヤジはキツイし。今さら何が起こったって驚きゃしないよ」と悪太郎がへらず口を叩けば、「せめて最後の試合に勝ってれば旅の気分もよかったんだがね……」と牧野コーチもうんざり気味に吐き捨てた。

*   *   *

 午後4時の開門と共にプレーボールを待ち侘びる大勢のファンが中日球場のスタンドになだれ込んだ。1万2千枚あった当日券もあっという間に完売し、夏休み中とあって外野席は少年ファンが7割方を占める盛況ぶり。今季最高の客の出足に、球団側は百円硬貨の釣り銭を十万円分追加取り寄せするなど対応に追われた。

 それほどファンが心待ちにしていたこの日の巨人戦。神・中・巨の三つ巴レースは、まさに国民的な関心事になっているわけだ。とりわけ名古屋の熱気は20年ぶりの悲願が懸かっているとあって、日ごとにヒートアップしているようにも思える。

 この大事なマウンドを託されたのは渋谷だった。初回に木俣の送球エラーで先制を許すも、その後は立ち直ってまずまずのピッチング。すると中日は4回、谷沢の13号2ランで逆転に成功。苦しめられていた新浦の内角カーブを狙い打っての一発だった。

 ゲームは5回に長島の通算1500打点達成となる逆転2点タイムリーで再び巨人がリードを取るも、負けられない中日は8回、マーチン、ウィリアムの外国人勢の連打で同点に追いついた。

 この時点で21時30分の制限時間まで残り20分。実質的に巨人の攻撃は次のイニングが最後となり、ここを凌げば中日は悪くとも引き分けを確保できる。マウンドには8回から星野仙が上っていた。

 この日の星野は見るからに絶好調だった。球は速く、「捕るのに精いっぱい。すごく切れていた」と木俣が驚くほどフォークが冴え渡った。8回は富田、柴田、王の並びをいとも簡単に料理し、どう考えても打たれるような気配はなかった。

 もしやられるとしたら、大抵この投手は四球絡みと相場は決まっている。その嫌な感じが現実となり、9回、先頭の柳田を歩かせると、末次が送って1死二塁。続く吉田を三振に抑えてホッとしたのも束の間、今度は河埜をストレートで歩かせてしまう。実は河埜のとき、近藤コーチがマウンドに駆け寄り、星野に一言、二言声をかけていた。

「河埜を歩かせるな、勝負せよと言いに行ったのだが、歩かせてしまった。やはり打たれたらいかんという気持ちになったようだ」

 河埜の次、投手倉田の打順には当然代打が出てくる。押し寄せるプレッシャー。満塁がちらつくと投手というのは手元が狂うものだ。だから、できれば河埜で切りたかったのだが、肝心の星野が腹を括れなかったのだからしょうがない。

 巨人ベンチが動く。「代打・上田」ーー先の阪神戦で計4安打と当たっているとはいえ、右をぶつけてきたのは意外だった。「どっちみち時間切れになるのだから、あそこは代打しかない。うちの左では星野のフォークは打てん。上田なら片手でもなんとか粘れるだろう」。

 果たして川上監督の “読み” が当たり、なんと上田が値千金の勝ち越し3ランを左翼スタンドに運んだのである。

 茫然自失ーーその場にしゃがみこむ星野と、そのすぐ背後を悠然とランニングする上田。“あと一人” からの陥落は、星野が47年9月1日から続けていた「本拠地での巨人戦10連勝」というジンクスの終焉を意味していた。

 試合後のロッカールーム、星野は天井の一点を見つめたまま、何を聞かれても無言を貫いた。勝負事なので、上田に打たれたのは諦めがつく。惜しむらくはその前、なぜ河埜から逃げてしまったのか?

 女房役の木俣も首をひねる。「ベンチの作戦は河埜と勝負だったのでその気だったんだが……」。

 強気で鳴らす “燃える男” だが、実は意外に気の小さいところがある。この夜も、そんな星野の繊細さがここ一番で顔をのぞかせたか。

 いずれにせよ、星野にはこの失態を取り返す義務がある。栄光の背番号「20」を負う者の宿命からは逃げられないのだ。

中3-6巨
(1974.8.6)

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