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【三国志・考】三国時代へと至る時代背景

 三国志の舞台となる時代は二世紀末期の後漢時代から三世紀の中国に三つの国家が鼎立した時代。本来一人しか存在しないはずの皇帝が三人いたというイレギュラーな時代である。

 なぜこのようなことが起きたのか?
 それは二世紀末期に起きた中国史上最大といわれる農民反乱の勃発に端を発する。その反乱について説明するためには、ときの王朝である漢王朝から説明せねばならない。

400年間、続いた王朝・漢

 紀元前221年、嬴政(えいせい)という人物が戦乱を制して中国大陸を史上はじめて統一。この人物は「皇帝」という称号を最初に名乗った「始皇帝」といったほうが馴染みがあるだろう。中国は始皇帝の王朝である「秦」によって統治された。しかしこの秦は始皇帝の死後に権力闘争や暴政に対する暴動など朝廷内外の混乱によって衰退し、建国からわずか15年で滅亡する。

 秦王朝の末期からすでに激化していた反乱、暴動から戦乱の時代に突入すると楚王・項羽と漢王・劉邦が頭角を現す。経緯を説明すると長いので省略するが始皇帝のあとに「堂々と」というか「まんまと」天下を手中に収めたのは漢の劉邦であった。

 この漢王朝が実に400年間、中国を統治することになる。日本で最も長く政権を握った江戸幕府でも264年間ということを考えると漢は非常に安定した王朝であったように思える。正確にいえば劉邦が建国した「前漢」が214年間、外戚に帝位を奪われた「新」という王朝が15年間、光武帝・劉秀が再び漢王朝の帝位に即いた「後漢」が194年間となるのだが「新」に関しては地方で多くの権力者の支持を得られず一代で滅んだということもあり、衰退した漢王朝が味わった一時的な忍耐と屈辱の時代だったと著者はとらえている。

後漢の腐敗と衰退

 他国との争いを制して建国された王朝で次に始まるのは国家内での権力争いであるのはお約束のようなものだ。この「後漢」も骨肉の争いが繰り広げられたことは三代目以降の皇帝が例外なく20歳未満で即位しているという事実だけで想像に難くない。要するに傀儡である。反乱は各地で当たり前のように起きていたようだが、それはいつの時代も変わりない。皇帝の威光を笠にした政権であろうと200年近く続いていたならば、それでもいいではないだろうか?と思える。

 しかし、やはりそれではいけないようだ。朝廷は濁流派と呼ばれる賄賂によって出世した者に牛耳られ、賄賂の要求を拒否したことで重職から外される者、なかには無実の罪で投獄される者もいる始末。そして、それらを意のままにしていたのは生殖機能を失うことと引きかえに皇族の身の回りを世話する職を得た宦官たちだった。

 本来、政治に発言力を持たない宦官たちだが、漢王朝四代目の皇帝のころにはすでに権力を握るようになっていたようである。宦官は絶対権力者である皇帝の身近にいる存在である。ゴマをすろうと思えば、いくらでもすれる。

 何もわからないまま10代で皇帝となったような坊やを操ることなど容易いだろう。宦官たちは自分たちの政治介入を問題視する者や邪魔となる清流派の政治家の悪評をあることないこと皇帝に吹き込んで失脚させていく。

 宦官は出世欲の塊のようなものだ。なにせ自らの男性器を切除してまで朝廷に仕えるという選択をした者たちである。自らの出世のためなら手段を選ばない。その傾向は三国時代となったのちも蜀漢という国家に見られた。

 当然のごとく賄賂も用いる。どうやらその資金源は搾取といえるほど庶民に課せられた重税であったようである。
 こうなると政治腐敗というか破綻国家だ。

霊帝と何皇后と宦官

 わずか12歳で即位した12代皇帝・劉宏(のちに霊帝を追号される)ご多分に漏れず漢王朝の象徴としてのみ存在意義があるような皇帝である。そして、その皇后である何皇后は屠殺業を営む下流階級の生まれで、宮中で恐れない者はいないほど凶悪な性格であったと『後漢書』に明確に記述がある。また賄賂によって貴人として後宮に入ったという事実も残っている。

 そして、よりにもよってこの苛烈な性格の女性が男子を産み、皇后となってしまう。それによって父母や兄までも官職を与えられたのだから恐ろしい。兄である何進はのちに大将軍まで上り詰める。

 ここまででも問題だらけの漢王朝だが、宮中をさらに混乱させる自体が起こってしまう。劉宏の側室で良家の子女である王美人が男子を産んでしまったのだ。そして自分の子に帝位に即けたい何皇后は王美人を殺害。

 劉宏はこのことに怒り、何皇后を廃そうとするが、皇后と蜜月関係にあった十常侍と呼ばれる宦官たちのとりなしによって思いとどまったという。いったい宦官はどれほど弁舌が立つ者が多かったのか。そして劉宏はどれほど暗愚だったのか。劉宏の悪政については数多いが、この決断は衰退した漢王朝が崩壊する大きな要因となる。

黄巾の乱

 この腐敗した時代を憂う者は多く、ついに中国史上最大規模の農民反乱とされる「黄巾の乱」が勃発する。184年2月のことである。

 指導者は張角という人物。彼は各地に散らばる同胞たちへ号令をかけ、同日に一斉蜂起。この動きに呼応する民衆は多く、地域を統治する王が捕らえられるなど地方の軍隊の手に負えるものではなかった。そして反乱は中国全土に広がり、国の中央で内輪揉めに没頭していたような国家も鎮圧に動かざるを得ない規模になっていく。

立ち上がる群雄たち

 さて、ここまで読んでくださった方は「おい、いつ英雄が登場すんだよ?」と思っていらっしゃっただろう。

 この反乱鎮圧のために、いよいよ多数の者たちが天下に名乗りをあげる。
 地方で反乱に対抗する自警団のようなことをやっていた者や、何者でもなかった者たちが各地で漢王朝が募った「義勇兵」として戦場へ向かった。
 官軍でさえも反乱軍に苦戦をしいられ、兵力を必要としていたのだ。

 なかにはすでに漢王朝に仕えている者もいたが「国のピンチは己のチャンスだ」と考えていたのは同じであったと思う。しかし彼らが戦うのは「漢王朝への大義」というのが建前であった。

 この「大義」なるものが、いかに重要なことか、それは現代のビジネスや個人の活動の根本として「なければいけないもの」として身にしみる方、気がつく方は多いだろう。

「あなたは何のためにこれをやろうとしているのか?」
「なぜ今、あなたがこれをやらねばならないのか?」
 起業を目指す方は投資家に必ずそう尋ねられる。
「儲かるから」「楽しいから」「思いついたから」などが本音であったとしても、それは「大義」ではない。嘘でも後づけでも構わないので
「今の世の中を、こんな人たちのために、この事業によって、このようによくしたい」と言えるようにしてほしい。

 そして、ここからが群雄割拠の乱世のはじまり。
 次回あなたの胸を躍らせることをお約束しよう。

参考文献
後漢書 本紀 霊帝紀 第八
皇后紀 第十 下 何皇后紀

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