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鍵っ子だった私がスポーツで得たこと

小学校2年生の頃、私は鍵っ子(カギっ子)だった。
鍵っ子というのは、帰宅しても家に大人がいないため、自分で家の鍵持ち歩き、帰宅後、留守番をする子どものことだ。

当時、両親は共働きだったため、小学1年の後半頃から、鍵っ子として過ごしてきた。(小1の前半は祖父が家に居てくれた)

小学2年の鍵っ子ともなれば、もう色々慣れたものだった。
鍵を開け、暗く静まり返った部屋の電気をつける。
朝食の食器を洗っておくと母が喜ぶので、洗う。
おやつを食べながら、漢字の宿題をする。九九を声に出して練習する。

1人なので、静かな部屋が寂しく、テレビを付けてみるも、ワイドショーやら時代劇やらで、怖いニュースやシーンもあり、親が帰ってくるまでテレビは付けずにいることが多かった。

宿題が終わると、図書館から借りてきた本を読み、眠くなると、家族が帰ってくるまで寝て過ごす。そんな日々だった。

姉は、仲のいい友達の家で宿題をするのが日課で、帰ってくるのが遅かった。
私はなぜ姉のような過ごし方ができなかったのだろう、と思い返すも、きっと単純にそのような友達がいなかったのだと思う。笑

そんなある日、父親の知り合いが、夕方に陸上(走りの練習)を教えてくれるとの話があり、両親は私にやりたいか聞いた。
鍵っ子で暇を持て余していた私は、「やる」と二言返事で快諾し、翌日から練習に参加することになった。
私が「やる」と言った時、両親は喜んだ。きっと両親も、私が一人で過ごす時間を出来るだけ無くしたいと思っていたのかもしれない。

学校から帰ったあと、宿題を済ませ、今日から練習だから行かなきゃ、と分かっていたが、走る格好と言うのがいまいち分からず…。
かと言って学校の体操着を着るのは嫌で、お気に入りのTシャツにキュロットスカートと適当な靴を履いて出かけた。
きっと親がその場にいたら、走るのにそれはちょっと、と着替え直しさせられる格好だったと思う。

走りを教えてくれるおじさんには、子どもが3人(三姉妹)いて、皆年上。当時、4、5、6年生だった。
そして3人ともマラソン大会ではいつも1位。他にも4人ほど練習メンバーは居たが、小2の私は最年少で、練習メンバーに私の同級生はいなかった。

グラウンドに着くと、練習メンバーはちゃんと走る格好をしていて、見るからに速そうだった。私はなんだか場違いな気がして、まだ始めてもいないのにもう辞めようかと思ったぐらい圧倒された。

おじさんは「一周走ってみて」と私に400メートル走らせた。それまで私は、足が特別速いわけでもなく、運動ができる自覚もなかった。
小学校1年生のマラソン大会は真ん中より下ぐらいの順位だった。

400メートルを走り終え、息を切らしている私を見て、おじさんは、
「ちゃんと練習したら1番になれるからね」と声をかけてくれた。
「そのかわり、おじさんとの約束は守ってね」と言い、3つの約束をした。

①学校から帰ったら、練習前におやつを食べたりジュースを飲んだりしないこと。
②練習で使った靴は毎日自分で洗うこと。
③マラソン大会まで練習を休まないこと。

子どもながらに、びっくりしたのは、①と③だった。おやつはダメなのかぁ。マラソン大会ってまだまだ先なのに。(練習開始時はマラソン大会の4か月前だった)と心の中で思っていた。

練習を始めると、おじさんは、細かいところまで私の走り方を指導した。
足の運び方、腕の振り方、目線やあごを引くことなど、細かいフォームまで毎日直すよう繰り返し指導された。
靴選びはもちろん、走っている途中に靴紐がほどけないよう、靴紐の結び方まで、しっかり教えてくれた。

私は、練習が嫌いではなかった。もちろん、それなりにキツイ練習もあったが、鍵っ子だったため、一人の時間を誰かと過ごせることが嬉しかったし、何より練習メンバーのお姉さん達が優しくて大好きだった。

しかし、最年少だったため、ハンデを貰って最初にスタートしたにも関わらず、後からスタートした他の練習メンバーにぐんぐん追い越され、ロード練習も後方から一人で追いかける形だった。
それでもおじさんは、引き返して、私の横を走りながら、声を掛け、走るフォームを注意したり、励ましたりしながらゴールまで伴走してくれた。

ある日、おじさんは私に聞いた。
「1年生のときにマラソン大会で1番だった子覚えてる?」
私は「うん、Aちゃん」と答えると、

おじさんは、「Aちゃんも、もう練習してるかもね」と言った。

小学生だった私の思考には、あの子は最初からずっと速い人!という固定観念があり、私は、Aちゃんは当然1番になる人だと思っていて、そんなAちゃんが練習しているなど、思いもしなかった。

「え、そうなの。練習してるの?」とびっくりしたように言うと、
おじさんは、
「あのね、1番になる人はみんなこっそり練習しているんだよ。オタマちゃんだって毎日一人でここに来てこっそり練習してるでしょ」
と言った。

実際に練習を始めて、おじさんとの約束でキツかったのは、②毎日自分で靴を洗うことだった。
疲れて帰ってきた後に、靴を洗うのは本当に面倒だった。
でもすぐ洗わなければ明日の練習までに乾かない。
母もおじさんとの約束を知っていたので、靴洗いを手伝ってはくれなかった。(朝食の食器洗いはしなくていいと免除された)

私は休まず練習に参加した。
雨の日は、筋トレに励んだ。

しかし、どんなに練習を重ねても勝ちたいと言う気持ちにはならなかった。なぜなら、練習メンバーに同級生はおらず、いつも1人で走っているような感覚だったからだ。

おじさんが、
「この前よりこれだけ速くなってるよ!」
と教えてくれるタイムも、いまいちよく分かっていなかった。

練習を始めてから4か月。
いよいよマラソン大会の日を迎えた。
私は、4か月間、毎日自分で洗い、足に心地よく馴染んだ靴と共にスタートラインに立った。

小学2年生は、2キロ。男女別でスタートし、学校のグラウンドを出て、校外を走り、また学校に戻ってくる。

最後の練習の日、おじさんは、
「今まで頑張ったね。明日は、登り坂のところで応援しているからね、いつものように走ればいいからね」と笑顔で声を掛けてくれた。

そして始まったマラソン大会。
私は、スタート直後から、次々と目の前の友達を追い越していった。
これまで練習相手に同級生がいなかったこともあり、いつも追い越され、追いかける側の自分が、どんどん追い抜き、先頭に近づいていくのは不思議な感覚だった。
さらに不思議だったのは、ちっともきつくなかったこと。
足も軽く、どんどん進む。

気付けば、目の前には去年1番だったAちゃんがいた。
そして、この坂を登ったら、学校だというところで、おじさんの姿が見えた。おじさんはストップウォッチ片手に、

「オタマちゃん、いいよ!そのまま抜けるよ!
 1番取れるよ!」と言った。

それもそのはず、私にはまだ余裕があった。
いつもの練習に比べれば、たった一回2キロ走るだけなど余裕だったのだ。
しかし、練習時から、競争心がなかった私は、どうしていいのか分からず、とりあえず2番手としてAちゃんの後ろにぴったりくっついていた。

すると、学校に入る門近くで、応援に来ていた母が驚いた表情で私を見ていた。
きっと娘が2番手で来るなど思いもよらなかったのだろう。
何より、共働きの両親は私の練習を一度も見ていない。

私は母の前を過ぎ、急にAちゃんを追い抜く決心をした。

お父さんもお母さんも知らないところで、私はずっと一人で練習してたんだ。そう思って、ぐんっとAちゃんを追い抜いてゴールした。

生まれて初めての1番だった。

走り終わっても1番の実感はなかったが、両親はもちろん、おじさんや、一緒に練習したお姉さん達皆が褒めてくれたので、それがただただ嬉しかった。練習を頑張って良かったとも思った。

そして、あの日以来、1番を取る人に対する見方も変わった。
あの人も、この人も、きっとこっそり練習してたんだ。
そう思い、1番になった人の努力を素直に認められるようになった。

何十年経った今でも、その時の記憶が鮮明に蘇るのは、おじさんとの練習の中で、子どもながらに得たことが沢山あったからだと思う。そして、忘れないように、その思い出を大切に心に留めてきたからだと思う。


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